Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

女子部夏季講習会 着実に身辺から変革

1972.8.14 「池田大作講演集」第4巻

前後
1  真実の夫婦愛とは
 はじめに女子部の中期のときに話した結婚観について若干補足しておきたい。それは愛情についてであるが、ほんとうの愛情は愛し合う双方の、生涯をともにするとの決意と、未来を志向する英知から生ずるということである。
 夫婦愛というものは、本能的な愛や情熱を、英知によって精神的、人間的な愛にまで高め合っていくときに、よりふくよかな夫婦愛となると思うし、それでこそ、幸福の風そよぐ人生の並木道を、手に手をとって歩んでいくことができると思う。
 ではその英知を生み出す根源は何か。英知とは知識でも、学歴、いわゆる頭のよさでもない。真の英知とは生命の本源からの光彩である。結局、英知を輝かしていくには“生命の鏡”をみがきぬく以外にない。そのためには結論していうならば、どうしても信心強盛であらねばならないといえよう。
 それ以外に生命の闇鏡、すなわち暗い闇のような鏡を、明鏡、明らかな鏡に転換していくことはできないし、英知の発露もないのである。したがって、実りある恋愛も、信仰なくしてありえないと、私はいいたい。
 更に熱烈な恋愛のすえ結婚したが、宿命が打開できずに生まれた子供の体が不自由だったという場合もあるかもしれない。もしかして夫が若くして亡くなることもある。自分自身が大病になったり、可愛い子供が交通事故にあわないともかぎらない。そうした宿命をまえにしては、いわゆる英知、才能だけではどうしようもない運命的な、不可思議な生命の流れというものを感ずる。この問題をいかに解決していったらいいか。
 不幸にしてそうなってしまったならば、本人はもちろん、家族がほうんとうにかわいそうでならない。老後の問題にしても、子供が成長、独立したあとは平均年齢からいっても夫が先に逝く。そうしたことを考えると、好きだ、きらいだという感情だけに流され、自己を見失い、いまの青春時代を安易に過ごすことはできないし、これほど愚かなことはないといえよう。
 信仰はそうした宿命の問題を解決するためにあり、宿命と対決しつつ自己の崩れぬ基盤を築くためにある。どうか若くして妙法をたもった皆さんは、どんなつらいことがあっても、自身のために、未来のために信仰を貫き通してほしい。
 女子部の時代にこそ、自らのために信心に励み、宿命を大きく転換し、福運を豊かに積んでいただきたい。長い長いこれからの厳しい人生において、微動だにしない自己を築き上げてほしいというのが、私の最大の願いであります(大拍手)
2  気品ある明朗な人に
 次に女子部の皆さんはブロックにあっては皆から慕われ、大切にされる存在であってほしい。学会という和合僧の組織の花のような存在になることである。なかんずく先輩である夫人部の人たちから好かれる一人ひとりになることである。いうまでもなく好かれる存在になるということは、いわゆる八方美人になりなさい、というのではない。“信心の芯”は、また自分の個性をしっかりと踏まえたうえで、女性としての生き方や、家事、礼儀、生活の知恵などを、よき先輩である夫人部の方々から謙虚に学んでいこう、という姿勢からはぐくまれるのである。
 同じことは職場においても、家庭においてもいえる。皆から好かれ、大切にされていく、そのこと自体がじつは福運である。現実の自分を離れて、福運があるわけではない。御本尊を拝んでいるから、学会活動をしているからといっても、一個の女性として、人間として自身の人間革命がなければ、福運をあらわしていくことはできない。
 また気品をもつことも大切である。しかし、気位が高いということと、気品とは別である。この点を勘違いすると、寂しい人生に陥ってしまう場合が多い。皆さんは柔和ななかに人間としての“芯”があり、明朗ななかに気品がおのずからにじみでる女性であってほしいのです。
3  身近なことから変革を
 その具体的な実践として、たとえば、“身の回りを変えていく運動”といったものを提案したい。
 創価学会の目的はいうまでもなく、日蓮大聖人の仏法を世界にひろめ、一切の人を救っていくことである。しかし、広宣流布は一朝一夕にできるものでないことは当然です。それは一歩一歩険しい尾根を登りつめていく長期的な前進になる。根気と粘りと強い忍耐力を要する実践です。
 また個人個人にとっての人間革命を考えた場合も、それは決して即席にできるものではない。日々の地道な信行学の積み重ねがあってこそ、はじめて全き人間としての生命の革命がなされるのである。
 すなわち、広宣流布といい、人間革命といい、更にはそれぞれの人生における具体的な目標といっても、それらはいつか時がきて一挙に実現するものではない。
 そこで信心の持続は当然のこととして、私は特に生活のもっとも身近な問題、事柄を確実に成し遂げていく運動を提案したいと思うが、いかがでしょうか。(拍手)
 たとえば、家や職場の掃除を以前よりもキチンとやるとか、当然実行していると思うが、ご両親と朝晩明るくあいさつをかわすことでもいい。あるいは洗を自分でするとか、庭の手入れをいままで以上にきれいにするとか、こうした身近なことを確実に行っていきたいと思う。もっともありきたりのことでよいのです。まず、一つか二つ、身の回りを変えていくようにしたら、と望みたい。
 ともかくそうした積み重ねが、じつは大きな波動になっていく。この身近な行動をとおして人間革命の姿を一つ二つと示していくことが、いまの時代にはもっとも肝要であると強調しておきたい。(拍手)
 こうしたことは、一見信心とはなんの関係もないように思えるかもしれない。また仏法はもっと高次元のものであって、古い道徳的なものではないと考える人がいるかもしれない。しかし、そうした考えは誤りである。
 男子部の講習会でも述べたように、宗教は人間としての完成をめざすものである。当然、道徳、倫理を含むものであり、反道徳なものではない。
 信心即生活の原理からいっても、現実の身の回りの生活を離れた信心はあるはずがない。大聖人の仏法はあくまで現実に根ざした“民衆のなかの宗教”である。泥沼のなかにこそ清らかな華が咲くように、日常的な悩みをはらんだ生活のなかにこそ、美しく鮮やかな妙法の花を咲かせていけるし、またそうでなければならない。このことがほんとうの信心のあり方であることを銘記したいし、そうした身近なことのなかに広宣流布の実践があることを知ってほしいのです。
 これは、ある女子部員の話だが、幹部研修会に参加した帰りに、自分のこづかいをさいて、お父さんの大好物をおみやげに買って帰った。お父さんはその娘のちょっとした思いやりをひじょうに喜び、信心していなかったが、やがて学会を理解するようになり、すすんで御授戒をうけたという。これはあくまで一例だが、こうした身近な行動のなかにこそ、ほんとうの信心があると思う。
 信心とは観念ではない。いくら高次元のことをいっても、そこに事実として身近な実証を示していくことができなくてはならない。つまり、事実のうえで自分がどう変わっていくかが肝要である。身近なところから少しでも変えていく、変わっていく。それがたとえ最初はささいなことであっても、必ずや実証の積み上げによって、小さな芽は若木となり、やがて大樹に育ち、葉を青々と茂らせ、実を結び、妙法の波動を与えていくのです。
 目標のみ高く、現実を見つめず夢ばかり追い求めている人生は、天空に浮かぶ虹を追うに等しい。そういう人は見栄っぱりであったり、観念論に陥ってしまい、いつか人生に挫折してしまうだろう。虹をつかむことができないばかりか、虹そのものもやがてはかなく消えうせ、最後には生きる目標を失ったり、ただ生きているだけの存在になってしまう。
 どうか、皆さんはそうした虹を追うような人生だけは歩んでもらいたくない。足元をしっかり見つめ、一歩一歩、地道に、着実に、自分自身の幸せのため、またご家族の繁栄のため、友の幸福のために、そして広布という偉大な目標のために進んでいっていただきたい。(大拍手)
 その願いを込めて、私はきょう集まった皆さんに、適切な表現かどうかは別にして“身の回りを変えていく運動”を提案しておきたいと思うが、いかがでしょうか。(大拍手)
 どうか皆さん方は一人残らず悩みと戦い、それを一つひとつ解決し、充実した人生を生きて幸福になってもらいたいのです。これだけが私の願いであります。皆さんの健康とご一家の繁栄を心よりお祈りし、再び昭和四十九年につどうことを期して、私の話を終わります。(大拍手)

1
1