Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

女子部夏季講習会 悠久の幸福を構築

1972.8.10 「池田大作講演集」第4巻

前後
1  女性の特質について
 最初に申し上げておきたいことは、女子部の皆さん方は、一人でも一生涯を生ききっていける基盤を、いまの青春時代に確立しておくべきであるということであります。御義口伝に「SA154E」とありますが、これは一応の傾向として、女性というものは現実主義者である、男性は理想主義者である、ということを示しているようにとれる。
 すなわち、現世安穏――現実の生活、現実の幸福を求めていくのが女性の徳性であるのに対し、後世善処――未来の理想というものを追って生きていくのが男性の徳性である、というように拝せるわけであります。いちがいにいえない点もあろうかと思うが、大胆な立て分けというものからみた場合には、真実をついていると、私は考える。
 男性は主として世間体とか、名誉とか、対外的な問題などで、未来に禍根を残すことのないよう悩む場合が多い。
 これに対して、女性は現実の愛情の問題等々で、一途になって苦しむ、というようなことが多いと考えられる。また女性は、一人でいられない、なにかにすがっていかなければ生きられない、というような宿命的なものもあるように思える。なにも、すべての女性がそうだと断定するものではありませんが、女性の幸福というものを考えるにあたっては、ひとまず、ありのままの一般的な傾向性から出発しなければならない。
 そうした女性の傾向性は、たとえば、自分をなんとかかまってもらいたい、という気持ちの強さにあらわれております。女性は仲間はずれになったり、みんなから取り残されたりすることを、ひじょうにこわがるという傾向性がうかがえるのであります。
 男性は一人で悠然と歩いていくが、女性は仲間連れで道いっぱいに、おしゃべりしながら(笑い)歩くという姿が、よく見受けられる。夫婦ゲンカでも、自分を“かまってくれない”という感情から起きていることも、多いようであります。
 また、理想主義者である男性は、現実の苦悩も未来にことよせて合理化してしまうという傾向性があるが、女性は現実の苦悩にはまってしまうと、とことんまでそのなかに入り込んで苦しみぬいていくという特質があります。男性はどちらかというと、楽天家になりうるが、女性の場合は、そうはいかない場合がでてくるわけであります。一つの問題でも、真っ正直に真剣に考え、それでいてどうしようもないといった姿が、よく見受けられる。最近の女性はドライになっているといわれるが、それでも、この特質というものは変わっていないと、私は思う。
 その特質は、一面ではひじょうにデリケートで、人情の機微をとらえていくというよい面にもあらわれる。したがって、優しさとか、愛情の細やかさという点では、男性はその比ではない。看護婦さんの仕事が男性ではつとまらないというのも、当然なことであります。しかし、また逆に、それが人の心を索したり、嫉妬したり、きわめて受動的、近視眼的傾向を生んでいることも決して少なくない。
 なお、女性の一途の感情というものが、一人の男性に向けられたとき、それだけにとらわれてしまう場合もある。そればかりではなく、自分で自分を調整できず、極端に走りやすいことがいろいろな面にあらわれる。それが女性の美しい点でもあるし、多くの悲劇を生んできた弱点でもあろうかと、私は思う。
 こうした女性の特質は、変えられないものかもしれない。また、変える必要もないと私は考える。しかし、そのうえに立って、皆さん方には、生涯にわたって崩れない人間の“芯”を、いま築き上げていかなければならない――ということを、訴えたいのであります。
 つまり、女性であるとともに、人間としての確立が必要であるということであります。むしろ、それが根本的には、第一義の問題になる。どのようなことがあっても、崇高に、強靱に生ききれる人間としての強さ、そしてまた福運というものを養っていくことが、いまはもっとも大切な時期であるからであります。
 皆さん方も、それぞれ将来結婚し、妻となり、母親となる日がくるでありましょう。そのときも、夫とともに、また子供たちと一緒に、一個の人格としての自己をみがきながら、更に大きな目標に向かって進んでいくという姿であっていただきたい。そこに真実の愛情が、より強く、より深いものになっていくと、私は確信したい。
 ある場合は、若くして夫に先立たれ、子供をかかえながら長い人生を生きなければならない、ということもあるかもしれない。また年をとれば、子供も立派に成長し、母親としての一応の使命も終える。夫ともやがてはいつか別れなければならない日が、必ずくるのもやむをえない。
 そのときに残るものは、母親でもなけば妻でもない、一個の人間であります。いやなことをいうようでありますが、その厳しい現実をふまえずして、人生を美化しても、結局は無責任となってしまう。
 その一個の人間のなかにダイヤモンドのような光を与えていくものこそ、青春時代よりつちかった、純粋にして強靱な信仰であると申し上げておきたいが、いかがでしょうか。(大拍手)
2  福運ある自己を確立
 次に、話は多少転じますが、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「万物は流転する」との言葉を残している。確かに全宇宙のあらゆるものは、変化してやまないのが実相といえるわけであります。
 いま、この大石寺の上空にも、天空を二分するような壮大な光の滝がかかっております。この天の川をはさんで、有名な牽牛、織女の二星が東西に向き合い、ロマンチックな七夕の物語をつくりあげている。
 その南の端近くには夏の夜のシンボルであるサソリ座が、十数個の星を従えて光っている。サソリの心臓に輝く一等星――アンタレスの赤い光は、皆さん方もよく知っているとおりであります。このほか、夏の夜空には、琴、ヘルクレスなどの星座が華やかに輝いている。しかし、それらの星も、悠久のように、不変のように見えるが、刻々と変転の相を繰り広げているということなのであります。
 新しく輝き出す星もあれば、突如として消え去ってしまう星もある――これは天文学の常識であります。つまり、天空にちりばめられた星も、すべて「常住壞空」の法則からのがれることができないというのが、宇宙の実の相なのであります。
 私たちの人生も同じであります。十代、二十代の人生と、三十代、四十代の人生とはおのずから違う。いかに若いときには幸福そうに見えても、それが将来ともに続くとはかぎらない。また、どのように美しい容姿の持ち主であっても、しのびよる老いの影にさからうことはできない。必ず、成住壞空の流転の法則に従っていかなくてはならないのであります。
 したがって、たとえいまはどのような境遇の人であったとしても、失意の底に沈んではならない。また、他の人を見てうらやましがる必要もない。無常の虚像を追うのではなく、皆さん方は、その実相を賢明に見極めていってほしいのであります。
 とともに、仏法はその流転の相、人生の無常を直視しながら、そのなかに成住壞空に左右されない究極の存在があることを解き明かしている。
 すなわち、二十代、五十代、七十代というように変わっていっても、生命の内なる“我”――生命の本体といってよいが、それは一貫して変わらない。仏法はそこに着眼し、その“我”に光をあて、確固とした主体性の確立をめざしているのであります。
 ゆえに、妙法に生きる皆さん方は、流転してやまない六道の世界に身をおきながら、それに流されるのではなく、信仰によって偉大なる人間革命の土台を固め、能動的にたくましく人生をいきぬいていく強い自己、福運ある自己というものを築いておいていただきたい。
 それ以外に、人間としての究極の幸福、悠久の幸せの“我”というものの獲得はありえないからであります。
3  強き信仰で宿命転換
 次に、宿命ということについて、要点だけになるが申し上げておきたい。
 皆さん方もごぞんじのように、宿命というものは、自分の生命のうちにあるということができる。一般には、宿命は外にあるもの、あるいは外から与えられたもの、もしくは定められたもの、とされておりますが、それは、決して宿命を正しくとらえたものではありません。
 人々が、宿命という問題につきあたるのは、自分ではどうすることもできない、深刻な悩みに直面したときであると思う。しかも、それは社会的、経済的なもののみでは解決できない、人生そのものから発する悩みが、おおいかぶさっているときが多い。
 もちろん、それと社会的、経済的等々の問題がからんでいることは当然でありましょう。しかし、それらの複雑にからみあった糸の本源をたどっていくと、その糸は人間生命の内に入り込んでいる。逆のいい方をすれば、その糸は自分自身の生命の内から発していることに気づくものであります。
 仏法はその生命の内面に光をあて、その糸の本源をたずねていき、そこに、もっと複雑多岐なからみあいを見いだし、その糸が過去遠々劫より自分自身によって形成されてきたものであると、鋭く見ぬいているのであります。しかも、その糸を手繰り、その奥に鮮やかな人生模様を織りなしていく、一念の実在を発見しているのであります。大聖人の仏法においては、その一念に力を与えていくものとして、大御本尊を確立し、受持即観心の義を説かれている。
 聖愚問答抄には「SA155E」との御文があります。
 さまざまに拝せるところでありますが、要約していえば、妙法の大綱を引くならば、一切を功徳とし、福運とし、引き寄せていくことができるという意味であります。
 詮ずるところ、私どもは本因妙の仏法をたもっている。本因とは、一切の変革の根源ということになります。したがって、多少飛躍しますが、皆さん方の胸中には、元初の太陽を輝かせていける力がある。宿命に泣き、宿命に左右される人生を変革していくことができる。新しい希望の人生に船出していくことができる。
 それが、本因妙の仏法の力用であります。
 これに関連し、仏法には有名な三変土田という原理があります。簡単にいえば、法華経において同居土、方便土、実報土の三土を寂光土の一土に変えていったというところであります。
 同居土とは、娑婆世界のことであり、娑婆世界とは苦悩に満ちたこの現実世界であります。方便土とは、そこからのがれて別世界にあこがれ、そこに自分をおいた人々の世界をいう。実報土とは方便土から発展して、一応そこに生きがいを見いだしながら、なお“なんのため”という目的がない。すなわち、実像をもたない世界に身をおいているという意味であります。
 しかし、その三つの土も、ひとたび妙法の輝きに照らされれば、寂光土になると説かれております。すなわち、あるときは苦渋に満ちた世界にもがき、あるときははかない希望を描いて苦労し、あるときは一分の報いを感じて喜びながら、再び苦悩に没していくという人生の流転――その虚像につつまれた世界を、実像の幸福の世界に変えていく。これが妙法の力であり、寂光土ということなのであります。御本尊に唱題し、信行学に励むという本因があれば、すでに皆さん方は、三変土田の原理にのっとっているということを確信してほしい。「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(六巻抄22㌻)と同じ原理なのであります。
 したがって、どのような境遇にあっても、恥じることも、嘆く必要もない。過去の人生よ、さようなら、新しい人生よ、こんにちは!といえるぐらいの自身と勇気をもって、大聖人の娘らしく、王女らしく、青春時代を乱舞していっていただきたいというのが、私のお願いであります。(大拍手)

1
1