Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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男子部夏季講習会 一切の環境が人間建設の場

1972.8.2 「池田大作講演集」第4巻

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1  宗教の目的は人格完成
 最初に、これまでも何回となくお話ししてきたつもりでありますが、仏法の世界性ということについて、感じているまま、気楽な気持ちで申し上げたい。
 およそ宗教の目的は何か、それは人格の完成――つまり人々を平凡な人のままに、高度の社会人、常識人として、社会、生活のなかで蘇生させていくことであるともいえる。
 諸君が観心本尊抄の学習で学んだように、仏界の境涯とは、具体的人間像としては、礼儀、見識、誠実、柔軟、または慈愛といった豊潤な人間性のなかに、なにものをも恐れぬ無限の勇気、一切の苦難を打開し、克服しゆく強靱の生命の力を具えた全き人間ということができる。信仰とは、観心ということであり、自己を厳しく見つめ、本源的な自己変革をもたらすことが宗教本来の使命であると考えられる。
 ひるがえって、現存する諸宗教をみると、一方では、自己のすべてを宗教それ自体に捧げ、犠牲的、殉教的信仰をしいる、いわゆる“動”に偏った宗教がある。一方では、社会とは一切没交渉で、個人の内面にのみ閉ざされた“静”に終始する宗教があげられる。
 しかし、それらが、いずれも全き人間の構築には直結しないことはいうまでもない。近代社会をみ、動乱の未来をみた場合、そうした一面をもってのみ、あるべき宗教の姿とするわけにはいかないのであります。
 これに対し、直実の仏法は、そのどちらの行き方にも偏るものではありません。いわば、その中道をいくものであり、動的かつ静的でありながら、そのなかに抑えようとしても抑えられない、躍動感を秘めているものであると考える。また、それが一念三千の真実の生命の実相であると、私は思う。
 したがって、人間の生命の実相、尊厳というものを、完璧に説き明かし、その尊厳なる生命を顕現し、確立していく真実の仏法こそ、宗教本来のあり方にかなった人間のための宗教である。そして現代の人類が、意識するとしないとにかかわらず、等しく生命の奥底で渇仰している世界宗教であることを、私は確信している。(大拍手)
2  信心強盛の本義
 次に、信心強盛とはどういうことなのか、ということを申し上げたい。かつて日蓮正宗第五十九世の堀日亨猊下は、日蓮正宗七百年の歴史において幾多の法難があったが、そこに二つの特徴がみられる。すなわち、一つには、必ず火の信心の人の心ない行動が原因となっている。また、もう一つには、世間のことにこと寄せられて迫害があったと述べられているのであります。
 信心強盛とは、決して狂信ということではありません。格好だけの、表面だけの強さは、むしろ信心の弱さをうわべだけで隠そうとするものであるとさえ、私は考える。
 強盛な信仰の第一条件は、まず地道な行学の水のごとき持続であると申し上げたい。持続それ自体、すでに力であります。偉大な芸術家にしても、幾多の苦難の試練を経ながら、なおかつ持続してきた経験の蓄積、集積が、今日の力となっている。ひとたびその修練の持続を忘れた場合には、その芸術家はもはや進歩がないとさえいわれている。スポーツにおいても、学問においても、ジャーナリストの世界においても、それはすべてにわたって普遍的にいえる道理であります。それも単なる平坦な持続ではなく、求道と向上の持続でなければなりません。
 ましてや信仰は、より本源的、永遠的な坂道への求道と向上の持続であるわけであります。実像の幸福、人間勝利のためには、その途中において、必ずいやなこともつきまとうでありましょう。しかし、陰徳は必ず陽報となって現れるというこの仏法の哲理、この妙法の原理を確信して、断固、自分自身に挑戦しながら、見事に使命の坂道を登攀していただきたいというのが、諸君に対する私の願望であります。
 第二に、信心強盛とは、そのなかに人間性を含むということであります。いな、ここに信心強盛の本義があることを知っていただきたい。御本尊を心から信ずることは当然として、人間として生きるべき道を実践していく。そして、他人に対して果たすべき責任は立派に果たす。これなくして、信心強盛ということは決してありえない。
 日蓮大聖人が御書に「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了することが信仰である」という内容のことを仰せられているのも、仏法をたもった人は社会の一切のことを熟知していきなさいとの意を含めておられると、私は信ずる。特に、青年期には責任感、実行力、そしてなによりも誠実さが求められる。経文に「柔和忍辱の衣を著て」とあるように、厳然と如来の座に居しながら、忍耐強く、人間として、青年としての力量を発揮していってほしい。(拍手)
 第三に、不退ということである。いざというとき、また難があったときに、縁に紛動されず、勇敢に立ち上がり「さあ、いまこそ団結して一切を上げ潮に変えていこう」とみんなを勇気づけていける人こそ、信心強き人であります。
 反対に、少しばかりの中傷や非難に紛動され、すぐに敗北の方向に流されていく人は、ふだんどのように立派なことをいっていても、根本的には信心も弱く、人間としても弱い人であると思う。
 佐渡御書には「SA149E」という有名な一節があります。
 同じように、はったりで威張っている人間は、いざというときには恐れて逃げてしまうものであります。人間の本性というものは、いざというときに現れる。そのようなときにこそ宿命転換し、人間革命できるチャンスであることを知らなければならない。その意味で、諸君は現代における青年四条金吾であっていただきたいというのが、私の願いであります。
 第四に、実証ということを強調しておきたい。諸君はそれぞれなんらかの広宣流布の客観的実証、足跡を残してほしい。大なり小なり、この実証ということなくして信心強盛といっても、それは観念の信仰にすぎない。
 決意発表はそれだけであるならばだれにでもできる。問題は、決意発表にしても意見にしても、それらをどれだけ自身の血肉として広宣流布のために生かし、実証を積み重ねていくかどうかであります。言葉上のことはいわば迹門であります。実証こそ本門といえましょう。その実証といっても決して華やかなもののみを追究する必要はない。一人の人間を救うことも実証であるし、一人の人を蘇生させることも立派な実証であります。友好関係で実を結ばせることや、職場で信用を勝ち取ることも同様であることは、いうまでもありません。自分の一家、親戚、職場、ブロック等々、もっとも身近のところにおいて種をまき、養分を与え、芽をふかせ、そして豊かな花を咲かせていたことが大切であると思う。
 なかんずく、現時において重要な実証は、友好活動ということであります。周囲の方々から「あの青年は立派である。さすがだ、信用し安心できる」といわれる諸君の成長であっていただきたい。そうであってこそ友好の輪も広がり、その根も深いものになっていくでありましょう。ともかく、友好の増大は個人の信用の度合いのバロメーターでもあります。青年にとって、信用はなにものにもかえがたい財産であります。一念に億劫の辛労を尽くした真剣勝負のたまものであると、私は思う。どうか、信心強盛とは、以上申し上げましたとおり、第一に地道な行学の実践、第二に人間性、第三に不退、第四に実証であることを銘記していただき、親愛なる諸君のますますのご健闘を心からお祈りするものであります。(大拍手)
3  “自分らしく”ということ
 次に“自分らしく”ということについて、お話ししてみたい。人には、それぞれ得手、不得手があるものであります。境遇、立場もさまざまであります。したがって、どうか自分らしくあっていただきたい。その自分というものを踏みはずすと、劣等感にとらわれたり、自身を失ったりし、つまらないところで青年期の求道、向上の意欲をなくしてしまうことも珍しくない。決して、虚栄を張ったり、背伸びする必要はないということであります。
 自分には、自分の軌道というものがあります。その軌道を自分のペースで進んでいくことが大切である。だからといって、自分の枠を定め、そこに安住してよいということでは、もちろんありません。自分がいまやるべきことは何か、自ら直面している課題は何か、それを知って、そこに自分らしく全魂をこめて、悔いないように一日一日体当たりしていってほしいということであります。
 その現実の問題と真剣に取り組み、それを解決したときに、自分というものを再発見し、自分らしい自分というものを創造していけると、私は思う。逆に惰性に流されているとき、甘い夢にひたっているときには、自分というものがわからなくなってしまうものであります。
 いまある一切の環境、境遇は、すべて自分の人間革命の場である――こう自覚することが大切である。御義口伝にも「SA150E」とあるように、この自分自身がいまいる現実を去って、なにか遠い所に期待できるものがあるというものではない。本有常住なのです。諸君たちのなかには、仕事や生活面で苦闘している人も多いことと思う。しかし、現実のその場こそ人間建設、人間革命の道場である。そこに、本来の自分自身をみがき、光彩を放っていくべき本源があるということを知っていただきたい。自分のやるべきことを確固たる信念でやりとげていく、そうした建設の戦いのなかに“自分らしさ”というものが蓄積されるのではないだろうかと、私は考えるが、いかがでしょうか。(大拍手)そのエネルギー源が信仰の実践なのであります。

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