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日蓮大聖人・池田大作

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学生部・男子部夏季講習会 宗教は人間広場のオアシス

1972.7.31 「池田大作講演集」第4巻

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1  信教の自由について
 はじめに私ども信仰をたもつ者の、社会的責任のうえから、信教の自由について一言しておきたい。
 信教の自由は、永久に守らなければならない。人間の基本的権利の“核”であり、根本であります。じつに、この信教の自由こそ、思想、良心の自由、言論、集会、結社、居住、職業の選択、学問の自由などの淵源をなすものである。これについては、これまでも、さまざまな機会をとおして申し述べてきたとおりであります。
 西洋の、自由権拡大の絶え間ない闘争の歴史をみましても、まずなによりも信教の自由の確立が、一切の出発点となったことは、歴史的事実であります。すなわち、信教の自由を勝ち取ることが、まず、人間としての精神の自由につながる根幹の戦いでありました。そこから思想の自由、内心の自由が生まれた。やがて、表現の自由、結社の自由等が勝ち取られていった。そうして民主主義の基盤が形成されていったわけであります。
 このように、近代民主主義の思潮をたどり、あらゆる自由権の起点をさぐると、一切が信教の自由に源を発していることが、明確になるわけであります。現代においても、信教の自由が、民主主義の諸権利のうちで、もっとも本源的なものであることに変わりはない。
 しかし、国家権力、あるいは、さまざまな社会的、心理的暴力、圧力が人間の内面を侵しつつあることも見逃すことはできない。
 これに対して、宗教者の側からのたゆみなき防波堤、砦を築いていく戦いが、今後の課題となるのであります。
 ショーペンハウエルの言葉に「信仰の強制は、不信仰を喚起するだけである」という有名な言葉があります。歴史をみても、そのとおりである。信仰を権力によって強制することは、もっとも愚かであり、かえって信仰の生きいきとした流れをせきとめてしまうものであります。
 内面の自由の魂へのエネルギー供給源が宗教の特質でありとすれば、内面の自由を守る戦いを貫いていたことが、宗教者として、信仰者としての社会的義務であり責任であると、私は思う。
 そのためには、宗教のこと、生命のこと、内面の問題にかかわることについて、だれもが自由に語り合えるふんいきをつくる必要がある。すなわち、宗教を人間の広場で語り合う、また人間関係のなかに宗教のオアシスをつくることであります。具体的にいえば、現在の私どもの友好運動こそ、新しい宗教、生命の復権運動であり、信教の自由を守る人間群の連帯の波であると確信したい。
 これに関連して、折伏ということを現代的に位置づけておきたい。折伏とは、人間としての共通の悩みに一緒になって苦しみ、それを語り合いながら、人間としての生き方にめざめていくことであると考えられる。いいかえれば、折伏とは自他ともの人間精神の覚醒運動であります。
 人間と人間との魂のふれあい、そして生命の本源的めざめ、それをとおしての互いの錬磨と成長の場全体が、折伏であると思う。
 妙法こそ、その生命変革、人間変革の源泉であり,淵源であることを知った私どもにとっては、その妙法という胸中の宮殿の珠をいだき、生命哲学の運動を興していくことが、これからの新たなる使命であり、人類への、真実の平和への責任遂行の戦いではないかと訴えたいが、どうてしょうか。(大拍手)
2  信仰と懐疑
 次に信仰と懐疑という問題について、一言しておきたい。
 今回の講習会で諸君たちの学んだ観心本尊抄に「SA148E」とあります。さまざまに拝せますが、端的にいえば、大御本尊を信ずる心が、すなわち仏界の顕現であるとのご指南であります。御本尊を信ずることが、十界互具、一念三千の生命哲理のうえから、いかに重大な意義をもっているかということを知っていただきたい。
 しかしながら、青年としては懐疑が起こってくることも避けられない問題でありましょう。前会長戸田先生も、青年に対する指導のなかで「批判力猛しければ……」ということを、青年の特質として述べられております。
 確かに懐疑は、信仰に相反するものではあります。それでは、信仰に懐疑があってはならないかというと、それは、人間性からいって不自然であり、根本的に誤りであると、私は思う。信仰は、懐疑の試練を経ることによって、より深く、より強くなっていくものであります。
 デカルトは、一切を疑うことから出発し、疑って疑って疑いぬいて、最後になおかつ疑えないものが、疑っている自己自身であることに気づいた。理性に信をおいた近代合理主義が、ここから始まったわけであります。
 私どもにおける信仰も、懐疑を排斥しているのではありません。懐疑のための懐疑に終わってはならないということであります。デカルトが真理を求めるために疑ったように、私どもの懐疑も、確固たる信仰を築くための懐疑であり、これを踏みはずしては成仏はありえないということを知ってほしい。
 有名なドイツの作家ヘルマン・ヘッセは「信仰と懐疑とは、互いに相応ずる。それは互いに補い合う。懐疑のないところに真の信仰はない」といっているが、懐疑に敗れるか、懐疑を起点として、より強固な信仰と偉大な人生を確立していくか、そこに重大な人生の勝敗の分かれ目があると、私は思うが、諸君どうだろう。(拍手)
3  要請される力ある人間
 次に、現代はまさに変転やまない激動の時代であります。特に、七〇年代に入る前後から時代の流れは激しく渦巻き、鋭い対立と亀裂の様相を呈しております。今後、この傾向は七〇年代後半、八〇年代にかけて、ますます顕著になっていくでありましょう。こうした乱世的状況下にあって、最後に勝利の旗を振る条件と資質はなんであるか。穏やかな田園的な時代にあっては、門閥や学歴、更には世襲的権威が幅をきかせるかもしれない。しかし、嵐のなかの航海にあっては、既成の規格化された船では航行することは不可能であります。
 そのときこそ要求されるもの――それは制度化された権威ではなく、その嵐に耐えることのできる粘着力のある、総合的にして本然的な生の人間の力であります。つまり、これからの時代、社会においてもっとも欲せられてくるのは、嵐をしのぎ、嵐を克服して、未来に確実なる平和の灯をあかあかと指さしうる、力ある人間であると、私は信ずる。ほんとうの意味の人間的力を身につけることを、諸君は決して生涯にわたって忘れてはならない、といっておきたいのであります。(大拍手)
 真実の信仰とは、その力をつける発条であります。人間的な力というものは知識や学問のみでは決して身につかないし、権力や名誉や経済力によっても備えることはできません。観心本尊抄をとおして諸君が学んだとおり、自己の胸中の金剛不壊なる当体を顕現し、その自在闊達な生命力のもと、にじみでる誠実、旺盛な責任感、たくましい実行力、健康、更には人間としての柔軟な信頼感等々があって、はじめて可能なのであります。そのうえで、あとは社会各分野における技術、見識、洞察力等を現実の生活の場で積み上げていく努力をしていかなければならない。また、努力をしていってほしい。そうすれば、諸君はどのような時代、境遇に入っても、いかなる分野で働いても、必ずや民衆のなかでひときわ抜きんでた、すばらしい、はえある人物として、輝く存在になっていくことに間違いないと、私は信ずる。そのような人間になっていただきたいことを、申し上げるわけであります。(大拍手)

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