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日蓮大聖人・池田大作

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学生部夏季講習会 生命哲学こそ人間の本源的基盤

1972.7.29 「池田大作講演集」第4巻

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1  東洋哲学が人間の原点
 生気はつらつとした諸君たちの姿を見て、心よりうれしく思います。最近、諸君の先輩と懇談したさい感じたことなどを、いくつかお話ししてみたい。
 人間は生涯、人間らしくあろうと努力しなければならないと、私は考える。つまり、人間とは未完成なものである。そして、完成をめざしていくところに、人間革命という原理もある。それが、その根底となる信仰というところにつながっていく。すなわち、人間完成、人格の完成等めざしていくところに、全き人間の生き方があるということである。
 仏法の真髄、東洋哲学の真髄は人間原点である。これこそ、二十一世紀、二十二世紀にわたって、更に脚光をあびる根本的な問題でありましょう。
 ソクラテスは、自らの無知を知っていたという点で、ギリシャにおける最高の哲人であった。当時の哲人たちにぬきんでた知をもっていた。汝自身を知るということ、これが最高の出発であった。自らの未完成を知り、謙虚な姿勢で学び、努力し、人間完成への前進をしていくことが、私はほんとうの人間らしい人間のあり方と思う。
 ともあれ、人はそれぞれに特質や他の人のまねることのできない才能をもっている。それを生かしていくことが大切である。生かしていくためには、才知や学歴等々におぼれてはいけない。才能や特質を客観視し、支配していくことをしなければならないと考える。それには、人間として、本源的な基盤となるものが必要となる。この要請に応えるものが、私は生命哲学でなければならないと思う。
 いまの社会は、家庭も学校も、そうした人生の基盤となる思想を失ってしまっている。したがって、青少年に人生の明確な指標を与えることもできなくなってきている。このままでは、知識ある野蛮人、才能ある機械をつくってしまうであろう。これは人間存在にとって、恐るべき危機である。この深刻な課題に応えるものは何か。それが、私は、宗教の使命であると考えるが、諸君どうだろう。(大拍手)
 個人の精神の内面は、体制や権力によって規制することはできない。また、そうした手段は全体主義に陥り、人間の尊厳を脅かす結果にもなってしまう。
 宗教は、自由な魂の内面充実への供給源とならなければならない。また、自己の人間としての充実を願う人々は、宗教を求めるべきである。人生には社会機構や政治形態または経済体制の欠陥をいかに是正しても、解決しきれない問題が数多くある。それを人々は、運命と呼び、神の意志によって定められたものと考えてきた。
 しかし、それでは、根源的なところにおいては、個人の確立ということはありえなくなってしまう。そこに、二十一世紀をめざす現代文明の行き詰まりがある。仏法においては、端的にいうならば、生命の輪廻流転を明確に説いている。因果の理法によって、その人自身の過去の行いが、運命を定めた原因と教えている。つまり運命も、つまるところ、その人の責任であると説いているのである。私は、個人の根源的な確立は、この仏法の生命観による以外に解決の道はないと思う。
2  生存の権利にめざめることの大切さ
 次に、まず諸君がこれから社会に巣立ち、指導者として、あるいはまた、若き人間革命の闘士として把握しておいていただきたいことを、一緒に考えてみたい。
 国際政治の場において、政治の延長上に戦争があってもやむをえないという考えが一部に根強くあるが、これは絶対に放棄すべきであると思う。戦争は絶対悪である。人間の尊厳への挑戦であるとみなければならない。
 ともに、政治的、経済的にも、戦争は結局は破滅しかもたらさない。まして、核兵器が存在する以上、武力抗争は、人類の絶滅戦争へエスカレートする危険性を秘めており、断じてこれを止めなければならない。
 かつて戦争は、政治の延長でありえたかもしれない。また戦争が、ある面で人間の美点――たとえば、勇気、正義感等々を発現させ、これをみがく機会になりえたという考え方も、あったかもしれない。しかし、いまでは、そうした戦争肯定論のいいぶんは、まったく幻想にしかすぎないということを知らなければならない。
 この意味で、私は世界のあらゆる国家は、日本国憲法の戦争放棄条項にならって、武器ならびに交戦権を放棄する決意をすべきであると訴えたいが、いかがでしょうか。(大拍手)
 もちろん、国家権力にそれを訴えてもムダであるかもしれない。現実の政治ならびに国家機構は、あまりにも複雑多岐であり、純真な庶民の心を反映することはできない。ゆえに私は、あらゆる国の民衆が、自らの人間としての権利、特に生存の権利――我々には生きる権利がある、人間としてだれにも侵されない権利がある――その生存の権利にめざめることが大切であると考える。
3  教育の基盤を豊かに
 最後に、教育問題について、いまは諸君に直接関係ないかもしれないが、将来のことを考え、一応感じたままを申し上げておきたい。
 教育は、いまさら申し述べるまでもなく、学校だけの問題ではない。学校は知識や技能の教育はできても、人間としての基本的な問題、すなわち人生の諸問題、倫理観等々について、一人ひとりを教育することはもはや不可能である。
 人間の一生にとって、五歳ぐらいまでの幼児期が、人格の骨格を形成する最重要期間であるといわれている。この間に、子供ともっとも接触する機会の多いのは両親、なかんずく母親である。
 子供は、母親の人格を手本にして、自分の人格を形成するのである。それは、主として無意識の深層部分でなされてきた。子供が成人して親の年代に近づくにつれ、その動作等が親のそれに似てくるということは、このためであると考えられる。
 わが国では教育ママのことがよく問題としてあげられている。それも、経済的にも時間的にも、恵まれた家庭の場合に限られている。ふつう過度に教育に熱意を示す母親と理解されているようであるが、私は、そこに考え違いがあると思う。いまのように技能や知識のみを詰め込もうとするやりかたは、子供をも苦しめ、また、それを押しとおしていこうとするときには、ゆがんだ人格形成をもたらしてしまう、ということを心配するのである。
 いずれにしても、母親は子供の人間としての基本的問題について重大な責任をもっているし、またもたなければならない運命にある。その意味において、母親が安心して教育に専念するには、どのようにしていけばよいか、諸君たちに、将来の社会の課題として考えていただきたいゆえに、提言しておくしだいです。
 また、三歳ぐらいになって一人で歩き始めるようになると、遊び仲間が人格形成上の重要な要素になってくる。だが、今日の日本では、ひとりっ子の場合が多い。したがって、隣近所に遊び仲間を求めても得られないことも珍しくない。
 それに、遊び場所もあまりない。人口抑制は時代の趨勢としてやむをえないかもしれない。しかし、子供たちが自由に往来でき、遊べる環境は、社会全体の問題として考えていかなければならないと思う。
 特に公園や遊園地などは、ほとんどが人工化されているが、自然そのものの環境が子供にはもっとも望ましい。自然に親しみ、自然から学ぶ、そうした広々とした人間精神は、自然のままのことろ以外には養えないからである。
 更に、学校教育において大きな問題は、教師についての考え方が単なる労働者と変わりなくなってきているということである。現状の教育システムでは、知識、技能を教えこむことが主にならざるをえないにしても、教師の人格が生徒に深く大きな影響を与えるということを忘れてはいけない。それを考えれば、教師は単なる労働者でありえない。まず、教師自身、このことを深く自覚しなければならない。
 社会もまた、教師がその任務を全うできるよう、十分な保障をすべきであると痛感する。現状は、優秀な青年が教師になることを希望しないという傾向が強くなった。これは大変に将来のために憂慮すべき問題であると、私は考える。
 ともかく、教育は政治の干渉をうけてはならない。政治権力によって左右されない独自のシステムを考えていくべきである。このことについては、すでに四権分立を提唱したなかで申し上げているが、教育が二十年、三十年後の人材を育成するものであることを考えるならば、特定の政治的思想によって左右されることは、きわめて危険であると訴えておきたい。
 以上、最近感じたままのことを、諸君たちの将来のなんらかの糧になればと思い、申し上げたしだいです。意義ある講習会でありますことを、心よりお祈りしております。

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