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日蓮大聖人・池田大作

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第35回本部総会 21世紀を開く精神の復興運動を

1972.11.2 「池田大作講演集」第4巻

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1  「教学の年」の意義について
 菊花爛漫の文化のかおり高き本日、もったいなくも総本山より日達上人猊下のご臨席をたまわり、更には総監をはじめ全国のご尊師方、また、ご多用のなか多数のご来賓のご出席をいただき、ここに全国の代表一万数千名の同志とともに、正本堂完成後の初の本部総会を挙行し、私どもの喜びを新たにすることができましたことを、心から感謝申し上げるものであります。ほんとうにありがとうございました。(大拍手)
 さる十月一日、白雪をいただく富士のふもと、御開山日興上人が広宣流布の原点の地と定めてより、春秋六百八十二年の星霜を刻む大石ヶ原の豊かな自然のなかに、私どもの待望久しかった正本堂がついに完成し、勇壮、荘厳な姿を現しました。
 また、さる十月七日には本門戒壇の大御本尊が正本堂にお出ましになり、十月十一日より十七日まで、総本山嗣法六十六世日達上人猊下の大導師のもと、一切の大法要を、いずれも上天気に恵まれ、無事とりおこなうことができました。この大事業はひとえに皆さま方の、強く、そして清らかな真心の祈りと、日夜の献身的な活動に支えられて達成されたものであり、私は皆さま方をとおして、全世界の同志の方々に衷心より敬意を表し、感謝申し上げるものであります。ほんとうにご苦労さまでした。また、心からありがとうございました。(大拍手)
 妙楽大師の釈に「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と。正本堂をここに築かれた皆さま方の福運、栄光の人間勝利の記録は、広布の第一章の記録とともに、未来永劫に、しかととどめられていくことでしょう。また、そこにこめられた人類平和への切実なる願いは、必ずや後世の人々の驚嘆と称賛の的となることを確信したい。まさに、これこそ妙法の地涌の勇士の輝かしい足跡であり、末法の御本仏日蓮大聖人も、いかほどか、この壮挙を嘉せられていることかと深く拝察申し上げるものであります。また、正本堂を遺言せられた恩師戸田前会長も、どれほど私ども弟子の実践をお喜びになっているかと思うものでございます。
 かかる一閻浮提総与の大御本尊まします総本山を、私どもは、いままでの幾十倍も外護し奉り、かつお守り申し上げねばならない、と決意するものであります。
2  広布の第二章へ出発
 とともに、ここでまことにもったいないかぎりでありますが、この一閻浮提総与の大御本尊の対告衆は弥四郎国重であるということについて一言ふれておきたい。すなわち、この大御本尊の対告衆は日蓮大聖人己心の弥四郎国重であり、甚深の奥義があることは当然でありますが、対告衆が僧侶でもない、当時の権力者でもない、貴族でもない、学者でもない、いわんや長者でもなく、有名人でもなかった、という事実であります。あくまで、つねに権力に圧迫されながらも、仏法を求め、弘教のために迫害をうけた、平凡な庶民の代表ともいうべき人であります。
 このことは重大な意味をもつものと、私は考えるのであります。皮相的かもしれませんが、ひたすらに平和な生活を願い、無名の人生を力強く生きていこうとする、一切の庶民の心を心とされた日蓮大聖人の鋭い英知であると、私はうかがわれてならないのであります。ここに日蓮大聖人の仏法の本義が、そして根本の姿勢があることを決して忘れてはならない。
 ゆえに大御本尊をお守り申し上げ、広宣流布に向かって永遠に、宗門、そして我々が栄えていくためには、ますます僧俗ともに団結で進む以外にないということを、申し上げておきたいのであります。
 ともあれ、いま私どもは今日までの個人の信心、実践の歴史、更には創価学会の伝統と歴史を一切この正本堂に納めて、新たなる夜明けの日の出を迎えたのであります。それはまさしく広宣流布の第二章、世界平和への日の出であります。第六の鐘から第七への鐘へ――。きょうよりは昭和五十四年、すなわち一九七九年をめざして創価学会五十年史の総仕上げに向かって、強き信頼のきずなに結ばれ、ともどもに、再び学会精神を呼び起こして、第二章の人間革命の歴史を築いてまいりいたと思いますけれども、よろしいでしょうか。(大拍手)
3  理念の重みを大切に
 はじめに、来年を「教学の年」と決定した意義を若干申し上げておきたい。それは、一つには創価学会の今後の路線にもかかわることであります。きわめて大胆な率直な、しかも大網的な表現を使えば、これまでの学会は、いわば行動の学会というイメージであったといえましょう。すなわち、広宣流布の土台と屋台骨をつくるために、不眠不休の突貫工事でありました。もちろん、その行動の背景には大聖人の御書があり、人間主義の偉大な理念があったことはいうまでもありません。と同時に、今日までは、この行動への、強い、ひたむきな情熱とエネルギーがなければ、これほどの民衆の盛り上がり、そして現在の創価学会の姿は絶対にありえなかったことでありましょう。
 しかし、いまここに安定期に入り、さまざまな階層の人々を包含し、また世界全体にその思潮を掲げてゆかんとする段階となり、次の総合的な力を発揮するためには、いかなる創価学会であることが必然の道なのか――。それには、行動より更に深い理念と実践の両道の積み重ねともいうべき、厳たる構築を、丹念に、また幅広く行っていく以外にないと思うのであります。
 かつての、民衆とは無縁の世界に閉じこもった宗教、逆に一時的に民衆の心をとらえ、爆発的な発展を示しながら衰亡していった宗教、その二つとも私はとりたくない。遠大な未来を眺望しながら、現実の激動の嵐のなかにあっても揺るがず、確かな哲理の道を民衆とともに進んでいくという、新しい試練を踏み越えていきたいのであります。理念を一段一段と深めながら、その理念にもとづく実践を模索しながら、社会と民衆の期待、また、二十一世紀の未来の友の期待に応えうる、盤石な創価学会をつくりあげたいというのが私の念願でありますが、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
 仏法には「教・行・証」という三つの原理があります。いま私たちの立場でこの原理を考えるならば、教とは、いうまでもなく日蓮大聖人の仏法哲理であります。行とは、その仏法哲理を、誰人でもない、自分自身が実践の行とすることであります。証とは、自らの生命の当体のうえに、真実の仏法をたもったという厳然たる証拠を示していくことにほかなりません。この三つがそろって、はじめて“生きた宗教”といえると思います。
 また、一人ひとりの胸のなかに、生活のうえに、社会のうえに、教・行・証の三つが和合して、はじめて仏法の実践者と呼ぶべきでありましょう。その意味で、理念のもつ重みを大切にしていきたい。そこで、ポスト正本堂の第一年を「教学の年」と銘打ったしだいであります。

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