Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第34回本部総会 宗教を交流し人間文化を再建

1971.11.2 「池田大作講演集」第4巻

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1  地涌の菩薩の使命
 さわやかな秋晴れの佳き日、もったいなくも総本山より御法主上人猊下のご臨席を仰ぎ、更に総監をはじめ、全国のご尊師方、またご多用にもかかわらず多数のご来賓をお招き申し上げ、全国の代表一万数千の同志とともに第三十四回創価学会本部をここに開催することができましたことに対し、私は、衷心より感謝申し上げるもであります。ほんとうにありがとうございました。
 同志の皆さま方の忍耐と苦難の道の開拓によって、広宣流布のいくつかの険しき山は、見事に登攀することができました。今後も広宣流布の大願成就のために、いよいよ力を合わせ、事故なく、朗らかにがんばっていただきたいことを、せつにお願い申し上げるしだいであります。
 経にいわく「当に知るべし。是の人は即ち如来なり。如来の所遺として如来の事を行ずるなり」(妙法蓮華経並開結386㌻)。この尊い仏の偉業は、必ずや御本仏日蓮大聖人のおほめにあずかることでありましょう。
 はじめに御義口伝の一節を申し上げたい。
 「SA128E」
 「今日蓮等の類」すなわち、日蓮大聖人の弟子は、皆地涌の菩薩である。それでは、この地涌の菩薩とは何か。火は物を焼くことが、その目的である。水は物を浄めることが、使命である。風は塵や埃を払い落とすのが、その働きである。大地は草木を長生させることが、その目的であり、作用である。ともに、地涌の菩薩は、南無妙法蓮華経と唱えて、生活、社会を日々斬新的に創造することが、その根本使命であるということであります。
 すなわち、火が物を焼くのも、水が物を浄めるのも、風が塵埃を払うのも、大地が草木を育むのも、それ自体の本然の作用である。それと同じく、地涌の菩薩も南無妙法蓮華経という本源の法をたもって、自ら能動的に己自身の幸福のため、人のため、社会のために貢献していくことが、本然の使命であり、働きであるとの仰せであります。
 この大宇宙、大自然の運行というものは、見事な調和であり、さながら無限の活力を秘めた生命のオーケストラであります。太陽の燃焼、地球の公転と自転、星雲、島宇宙等々、まさに壮大な調べとしかいいようがない。
 この大宇宙、大自然は、他に作者がいて、つくられたものではない。自らが作者であり、作品であり、監督であり、演出者であるといえましょう。仏は、この本然的作用の本体を、南無妙法蓮華経であると覚知なされたのであります。
 人間もまた同じであり、その根本的な知恵、活力、生命のダイナミックな動き等は、内より発するものであって、他から決して与えられるものではない。
 人間が人間本来の力を発揮していくとき、これを地涌の菩薩というのであります。地涌の「地」とは、生命の大地であり、もっとも本源的な大地に立って、行動を起こしていくことであり、地涌の「涌」とは、他からの作用ではなく、内より悠然たる生命の力を湧現することにほかならない。
 「四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり」とは、私たちの実践においていえば、地涌の菩薩として活躍する使命の庭は、それぞれ異なっていても、所詮妙法蓮華経の所作であるということであります。
2  自発の人、能動の人に
 この地涌の菩薩の住処は、どこか――それは、天台の釈には「法性之淵底玄宗之極地」とある。生命の究極、根源の実在を、天台大師はこのように表現したのであります。一言でいえば、法性之淵底玄宗之極地とは、南無妙法蓮華経のことであります。これを天台家では、真理ともいっている。この「真理」は、一般哲学的に使われている「真理」よりも、もう一重深い意義をもっている。大宇宙、そして生命自体を掘り下げていった究極の真理とは、南無妙法蓮華経であるとの意味であります。自己の生命の奥深くには、法性之淵底玄宗之極地という確たる実在がある。それに到達し、そこから、豊かな生命力をくみ出していったときに、人間としての真価が発揮されていくのであります。
 卑近な例でいえば、地下八百メートルのところに温泉があったとする。それを七百メートルしか掘らなければ温泉は出ない。八百メートル掘ってはじめて温泉が噴き出してくる。と同じように法性の淵底にいたって、これまで冥伏していた力が厳然と現れてくる。ここに到達していく生命の開拓作業が日々の信仰、唱題なのであります。
 更に、引き続いて御義口伝には「SA129E」と。
 千草万木ことごとく地涌の菩薩である。たとえ、どんな草木といえどもことごとくそれぞれの特質をいかんなく発揮している。桜は桜である。決して椿とはならない。皆、自己の本然の個性を主張しているわけであります。
 地涌の菩薩もまた、もっとも本然的な人生の軌跡を描いて進むのであります。しかも、その講堂は久遠以来の本有の慈悲の運行に合致すると仰せなのであります。それは南無妙法蓮華経という本源の法をたもっているがゆえである。したがって、地涌の菩薩を本法所持の人というわけであります。
 この御義口伝の一連の御文は、いかに生命の内に妙法の珠をいただいた自発の人、能動の人が尊いかを示されている御文なのであります。
 法性の淵底、玄宗の極地に自身をおいた人は、おのずから、無始無終に衆生を利益してきた地涌の菩薩という内証を、この小宇宙たるわが身に具現していくわけであります。すなわち、内なる生命の力を人生と社会に最大限に発揮しながら、自己の本有の使命を全うしていくことができるわけであります。これ以上、力強い、尊い人生の価値はない。
 現今の社会はあまりにも受動的な人間が多すぎる。自ら考えることを拒否し、あるいは社会の巨大なメカニズムのなかに埋没し、機械仕掛けのような人間になりさがってしまった。それは、一面では社会構造に由来するものでありましょうが、より根本的には生命の革新性がないからであり、更にはその力を本源となるべき生命の電源体がないからであると、私はみたいのであります。
 私どもは久遠の流れに棹さして生きる地涌の菩薩のつどいであります。それぞれが、広宣流布になくてはならない使命の友であることを決して忘れてはならない。
 大地より六万恒河沙の地涌の菩薩が湧きいでた生命の儀式は、まさしく広宣流布の方程式にほかならない。それは、使命の人の自発の連帯であり、崩れざる平和へのやむにやまれぬ心情と行動の広大な渦潮であることを知っていただきたいのであります。
3  広布の使命を生涯持続
 諸法実相抄にいわく「SA130E」と。
 「法華経の行者にてとをり」また「日蓮が一門となりとをし給うべし」そして「日蓮と同意ならば」という御金言を深く胸奥に刻んでいただきたい。
 今後、どのように時代が変革、進展しようとも、広宣流布を決定づけるものは、どこまでも地涌の菩薩という内証の自覚であることは不変の原理であります。
 この自覚だけは、絶対に破壊できない。いな、破壊してはならない。たとえ誰人が批判しようが「SA131E」との不動の信念で、限りなくわが道を堂堂と進んでいこうではありませんか。(大拍手)
 諸法実相抄の次下の文にいわく「SA132E」とございます。
 将来においても、猶多怨嫉の経文どおり、非難、中傷もいろいろあるでありましょう。しかし、広宣流布する以外には道はないのであります。その使命を生涯持続し、実践する人こそ、まことの地涌の菩薩ではないでしょうか。
 頼基陳状にいわく「SA133E」とあります。
 社会の危機、民衆の前途の苦悩に生命の痛みを感じ、その根本解決のための抵抗運動に戦う人こそ智者であるとの御金言であります。私としては、学会の庭からほんとうに社会のため、人々のため、文化のために貢献していく人が続々と出てもらいたいのであります。創価学会の社会的意義もそこにあるし、それがまた広宣流布であると信ずるからであります。
 木にたとえれば、根は日蓮大聖人の哲理であります。学会を幹とすれば、そこからどう枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、果実を結んでいくかが、これからの課題といってよい。そのためにもこの数年間、更に大樹の根である大聖人の仏法哲理を掘り下げ、幹である学会という組織を完璧にし、人材育成に全力をあげていきたいものであります。
 どうか、私とともにこの未曾有の建設の事業に忍耐強く、英知と情熱をかたむけて取り組んでいっていただきたいことを、再びここにお願い申し上げるしだいであります。(大拍手)

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