Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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仏法に結ばれた師弟  

「池田大作講演集」第3巻

前後
1  戸田城聖が、牧口常三郎のことを回顧する時は、心情より懐かしそうであり、厳しかった。戦後初めての法要を兼ねた会合が、杉並の歓喜寮(現在の昭倫寺)で営まれた。その時の追悼講演である。
 彼は泣き、かつ激憤しながら話を進めた。たった一人の親戚の人に背負われて、寂しく死して出獄した牧口先生の模様を語りつつ鋭く叫んだ。……先生の薫陶を受けながら、時の権力者を恐れて、かかわりのないように去っていった、卑怯な同志を詰るのであった。悔しかったのであろう。
 昭和二十五年十一月十二日、神田の教育会館でなされた七回忌法要の時も同じであった。彼は幾度も泣いていた。号泣に近い。その深き心は、弟子たちにはわからないようであった。生涯にわたって彼は、獅子のごとく剛毅であった。信仰のうえからの信念はもとより、明治の良き気骨のある性格でもあった。しかし、一度牧口先生のことになると、真剣を抜く姿勢をとられたのである。ある時は、胸臆より涙し、ある時は、修羅のごとく憤り、獄死した恩師を偲び、護りぬいてこられた。疲れのでた晩年、側にいた私共には『先生がいないと寂しい。牧口先生のもとに還りたい』と、よくいわれたりしていた。
 私は、その度に電流に打たれる思いであった。仏法を結ぶ師弟というものが、かくも崇高にして尊く、偉大で強靭なる永違の絆をもって連結されているものなのかと。まさしく、生死は不二であり、師弟は不二であることを、色読するのみであった。
2  人の心というものは、時間と空間が過ぎゆくと、いつしか、その実体が薄れていくものである。名声と利害とのために結ばれた師弟の姿は、世間にはいくらでもあろう。一時的に、利用と打算とにつながる師弟の道はいくらでもある。それらは苦節の山に登れば、師も弟子もともに別れていく。牧口先生と戸田先生の師弟道は、瞬時、生涯の苦闘であり、更に獄中に花開き、恩師の逝去に入って真髓の実を結晶していかれたのである。
 戸田城聖が、決然と、師の遺志を果たさんと、権力の魔に挑戦したのは――獄中、牧口常三郎の死を、検事より聞かされた時からと想像できる。妙法の厳窟王である。まさに"一人の人間の、真の偉力は、死と生の間一髪、地獄の千仞へ、半身堕ちかけた時、猛然と奮い起つてくるものであるという、吉川英治氏の一言が思い出される。
 戸田城聖の指導は峻厳であった。情弱を許さなかった。その不退の求道心で師に仕えたのであろう。戦時中の弾圧の時、多くの同志は鼠のごとく右往左往した。更に、牧口先生を誹謗し憎んだという。戸田城聖は『法のため、牧口先生は、私を獄中までもお供させて下さった』と感謝していた。
3  二月二十五日は、戸田先生の郷里・北海道の″雪の文化祭”。雪像の芸術作品には圧倒されれた。見いる市民は、誰もが称賛。あくる日、日本晴れのテイネオリンピアでの、壮大なるスキーのマスゲームにも絶賛の拍手を送る。新時代の文化に先駆する北海道。誰人が見ても日本一であったろう。
 東北の文化祭も美事であった。郷土色鮮かに大成功の乱舞であった。東北も大盤石。陰の人もただただ、ご苦労様でしたと申し上げたい。

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