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日蓮大聖人・池田大作

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通説排し真相を追究  

「池田大作講演集」第3巻

前後
1  第一巻の「人間革命」を読み返した。ここで、再び通説から真への追究の記録をとどめておきたい。それは、戸田城聖の昭和二十年七月三日の出獄のことである。
 「人間革命」の執筆直前までは、恩師の出は巣鴨(今の東京拘置所)が通説となっていた。この通説はかなり抜きがたいもので、私はS氏等に詳しく調べてもらったものである。
 出獄の模様を、先生の奥さまに尋ねると、中野、中野という言葉が盛んに出てきた。
 「中野です。中野の駅から電車に乗って、戸田と家へ帰ったのです」
 一点の疑う余地もない、明確な答えがはかえった。
 私たちは迂闊にも、巣鴨出獄を信じきっていたのである。冒頭の書き出しから誤るところを、救われた思いであった。そして、深く息をつきながら――通説というものがどんなに恐ろしいものかを思い知り、以後あらゆる瑣末な事柄まで注意を怠るまいと、わが心を戒めた。
 確かに先生は、巣鴨で囹圄の身となり、そこに二年近くおられたことは、書簡その他で明らかだ。ところが出獄の四日前、急に巣鴨の未決監から、中野の豊多摩刑務所(今の中野刑務所)へ移されていたのである。つまり、先生は巣鴨から中野へ移され、三日にして、保釈出所の晴れの身となったのである。
 すると、現在の中野刑務所が当時、豊多摩刑務所の名称を使用していたのであろうか。私には疑問が大きかった。事実、豊多摩刑務所は埼玉の浦和にも現存している。疑心暗鬼の日が続く。そこで調査、また調査。数日の後、こういうことが判明した。――終戦までは、確かに中野は豊多摩刑務所であった。戦時中、思想犯の増大でここには収容しきれなくなったのであろう。浦和に豊多摩刑務所分所というものが増設されたらしい。そして戦後、豊多摩刑務所は中野刑務所と改称され、浦和の分所はそのまま豊多摩刑務所の名を継いで今日に至つている。
2  現在、残されている歴史というものも、このように通説の錯誤により、誤って真相として伝えられている部分が相当あるものと、覚悟しなくてはならないだろう。ここに通説の恐ろしさを、私は沁々と知ったのである。
3  今朝から雨。春が駆け足でやってくる。春が近づくと、いつしか少年の頃を思い出す。”春が来た"”春よ来い”″春の小川”の歌が、恋しく浮かんでくる。燕も、雲雀も、鵙も、頬白も懐かしい。桃の花も、杏の花も、胡桃の花も、菜の花もそうだ。
 春風に吹かれ、わが友の幸せが、咲き香ることを、ただ祈る日々である。

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