Nichiren・Ikeda
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1 夜半の執筆も、私の日課。今、十二時四十五分。ガスストーブが熱くなってきたので、妻に、一時、消してもらう。御書が、机の上に厳しい。
「人間革命」の、連載第一回は、昭和四十年の元旦号であった。黎明の章十三回分の原稿を、前年の十二月十四日に、手渡したことを記憶している。
この日が、第一歩というわけだ。その担当として、編集長が、一人の青年をつけてくれた。
彼は、二十三歳。東大の経済学部出身の秀才。H君である。入信は、昭和二十八年というから、なんと十一歳の時。現在は、二十九歳。最近、見目麗しき妻を娶る。彼は、第三巻まで、唯々黙々と、その任を全うしてくれた。
第四巻より、第六巻までは、M君に交代。M君は、早稲田大学出身。俊逸。入信は十二歳の時と聞く。
H君は、礼儀正しく、信望が厚い。原稿整理では、申し訳なく思っていたが、やがて栄転。現在は、広布の、より中核で奮闘。嬉しく思う。昨夜、彼と会った。さりげなく、当時の思い出話を、懐かしそうに語る。
第一巻の、戸田城聖が出獄した刑務所の名称を、旧名(豊多摩)で、私は書いた。彼は、新名(中野)を調べて、それを親切に教えてくれた。第二巻の、終戦直後の、食糧事情の数的裏付けも、資料室のマイクロ・フィルムで、つぶさに研究し、私に訂正を申し込む。
私の拙い原稿を、未来にわたって残そうと、新聞の原稿用紙に書き写して、工場に回しておったとのこと。その心情が有難い。お陰で、私の原稿は、資料記念室に保存してあるようだ。恥ずかしいやら――自分のものは、一切、無くなってくれた方が、よいと思っている私には、迷惑でもあるが。嗚呼。
H君は、聡明な人である。私が、地方指導のため、原稿が心配な時が多々ある。普通は、係りとしての責任上、「何とか、今日中に頼みます」と、いうのが常識。彼は、内心はいざ知らず、「先生、今夜一杯、まだ時間がありますから、明日の分を、宜しくお願いします」と。言葉使いの丁寧さ。今の時代には、珍しい。彼のために、苦しませてはならぬと、自然に無理をして書く。
毎日の連載である。挿し絵画家に、原稿を回さねばならない。ゲラ直しの、時間が必要であろう。そのなかで、何のイザコザもなく、スムーズに動いてくれた。彼は、名編集者だ、と今も感謝している。
M君は、当年三十歳。なかなかの研究家。原稿に、少しでも間違いがあると、厳しく追及してくる。情熱家。静の人と、動の人。大河の人柄と、激浪の人格。戸田城聖が、子息・喬一あて、牢中より出した一節に、楠正成のことが書いてある。彼は、いった。戦後、発見された、本人自筆の「古文書」によれば、″楠”ではなく、″楠木″である、と。登場人物の氏名を、私は、慣れぬためか、つい間違えて書いてしまう場合があった。そこで、彼は、リストを作成して、よく訂正をしてくれたようである。
法悟空は、若い編集者に、追いまくられながら、いよいよシーソー・ゲームを始める。
2 昨日、ある石川県の老人が上京。是非とも、鶯の書斎にと。その真心に打たれ、お借りする。古典には、春告鳥、歌詠鳥、花見鳥と、歌人らは詠う。春も近い。梅の花も咲く。そして、鶯も鳴くであろう。
まごころの 鶯鳴きて 筆走る