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日蓮大聖人・池田大作

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第131回10月度本部幹部会 庶民の文化結実へ

1970.10.26 「池田大作講演集」第3巻

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1  すでに聖教新聞でも報道されたとおり、明年の呼称は、本部指導会議室、本部企画会議室、総務会議等で検討した結果「文化の年」と決定しました。皆さん方も了承していただけますでしょうか。(大拍手)
 第二の十年は、皆さん方がこれまで築き上げてきた信心の大地のうえに、大文化を構築していくところに意義がある。その先駆けとして、一歩前進するのが、明年「文化の年」です。四月には創価大学が開学する予定であるし、その他、さまざまな文化の催しを、全国的に繰り広げていくことを検討しております。
 それはともかく、真の「文化の年」の意義は、そうした華やかな催しのなかにのみあるのではない。結局は、個人の完成なくして文化なく、広宣流布の完成もないのであり、皆さんがた一人ひとりが社会、家庭という現実生活の舞台で勝利者にならなくてはなりません。
 そこにこそ、真の庶民の文化があり、いまだかつてない庶民即文化、生活即文化の結実があるのです。すなわち、妙法を護持した私ども庶民の団結によって建設する文化は、庶民の文化、生命の文化、人間の文化、英知の文化、創造の文化である。そして、それら一つひとつの結晶が、次の生活、信心の推進力になっていくという方程式を知ってほしいのです。
2  座談会を核に人材育成と教学の振興
 第二の十年の大きな課題は、人材の育成と教学の振興にある。第一の十年間が量の増大であったとするならば、第二の十年は、質(内容)をあらゆる点で向上させていく十年でなくてはなりません。
 その核となるのが、座談会であり、そこでは、まず第一に人材の育成をしていかなければならない。若々しい優秀な人、また、社会的に立派な人を見つけて応援する一方、多くの人々を教育し、有為な人材に育て上げることが大切です。人材を見つけ、育てられないような人は、ほんとうの指導者とはいえない。
 指導者、先輩、幹部というものは、後世のために何人の人材をつくるか、見つけるか――活動の原点はその一点にしぼられます。そうでなければ、単なる権威主義に終わってしまう。反対に、人材を見つけ、伸ばしていけば、こんどはその人といっしょに楽しみながら進んでいけるのです。
 座談会のもう一つの焦点は、教学の振興である。人材の育成と教学の振興――この二つの活動は、いずれも地道で、華々しくはない。しかし、将来のための大基盤をつくっていることを確信していただきたいと思います。
 第二の十年の新しい骨格づくりとして、本格的に一つの道に地道な努力を積み重ねていく人、専念していく人、これを称して信心の、学会の本格派と命名できるのです。
 これを忘れたならば、どんなに立派な文化祭をやろうが、華々しい活動をしようが、花火のごとくはかないものとなってしまうでしょう。
 幹部は、教学はもちろん、ありとあらゆる問題についてだれよりも勉強し、力を身につけてもらいたい。現代は激動の時代であり、いつまでも古い考え方に固執していれば、必ず時代に取り残されてしまう。人々をリードすることはできません。
 世に出た人は、相当の苦労をし、努力し、激戦を繰り返し、それで社会に頭角を現しているのです。したがって、信心があるから、といった安易な考えの人がいれば、それは大きな誤りといえましょう。そこには慢心があり、傲慢さがあるということを銘記していただきたい。
 これからのリーダーシップはどうあるべきか、社会問題、国際情勢、文明論等々、あらゆる面で勉強し、思索し、見方、考え方を養っていくことが必要です。不勉強は指導者として失格であるといっても過言ではない。それぐらい自分に厳しくなければならない時代に入っているのです。
3  後輩の自主性尊重し、人間性の指導を
 最近“生きがい”という問題が、論壇の焦点になっている。人間疎外の危機が叫ばれる現代社会にあって、自己の主体性の確立、そして積極的に生きる道を求めようとするのが、世界的な傾向になっています。すなわち、事業においても、その他あらゆる面で行き詰まっているというのが現状であります。
 そのため、有能な人間は、自分の能力が十分に発揮でき、能力が認められるところへいきたいと、このように動き始めている。
 わが学会は、義務感でできてきた団体では絶対にない。生きがいを求める人々によって生まれた世界である。各人の生きがい、主体性、積極的な活動をもっとも大切にするのが、創価学会本来の姿なのです。
 したがって、幹部の命令主義、権威主義、無神経、傲慢な言葉づかい等のために、学会の組織につきたくないという例があれば、その幹部は、信心利用というべきであり、まったく幹部の資格はない。
 信心は歓喜であり、そうした歓喜と自発的な意欲を伸ばしきってあげるのが、幹部の責任です。反対にそれを奪う幹部は、魔の存在として、もっとも厳しくみなければなりません。
 皆が心から楽しみながら、そこに最高の生きがいを感じていく、自分たちの世界を、また社会、境遇を、家庭をそれぞれ築いていく、そういう前進をしていけるところが、創価学会であります。
 仏法は本来、民主主義なのである。“仏法民主主義”の言葉でご承知のとおり、日蓮大聖人の仏法はいわゆる僧侶仏法でもなければ、貴族仏法、一部エリートの仏法でもない。民衆仏法なのです。
 創価学会の発展も、この“めざめた民衆”の下からの盛り上がりによってもたらされたものである。権力を使ったわけでもないし、学者や金力を使って発展したものでもない。これは歴史が正しく証明してくれるでしょう。
 世間一般でみられるように、組織が大きくなると、とかく“組織の論理”が優先してしまう。組織を掌握する幹部が、独断的になるおそれがあります。もし学会の組織がそうなったら、広宣流布も、言葉だけに終わってしまいます。ここに民衆の仏法という、永遠性をいかに維持していくか、という大きな課題が生まれるのです。
 もとより、幹部は指導性と力をもたなければならない。だが、それはみんなの自主性、自発性と対立するものであってはならない。みんなと同じ側に立つ、みんなが考えるほうにいつも立っている。その原点に立って目的をさし示さなければならないのです。
 では、その目的とは何か――それは、幸福への目的、信心への目的である。その目的をさし示し、そこへ導いていくところに、創価学会の指導主義の特質があるといえます。
 これまで理念として、世に宣言してきた仏法民主主義も、現実に創価学会の世界でどう実践されていくか、実現されていくか、それがこれからの十年の課題であり、世間の注目もそこにあるのです。
 こうした現実の姿による啓発が、これからの時代の、じつは偉大な折伏につながってくるということを申し上げておきたい。
 幹部は、後輩をあたたかく包容し、みんなが伸びのびと楽しく活動できるように、いつも配慮していただきたい。ほんとうの人間性は、信心のなかにある。信心の発露は人間性である。人間性にあふれた、急所をはずさない幹部の指導は、相手の胸に刺さり、いつまでも光彩を放ち続けることを知ってほしいと思います。
 広宣流布というのは、短期決戦ではない。末法万年尽未来際にわたる息の長い、遠征の戦いであると自覚してほしい。あせる必要もないし、決して無理をしてもならない。人の顔がそれぞれ違うように、性格もさまざまである。一つのパターンには決まらない。そこに仏法の一念三千の理法がある。一念三千ということは、最高の哲学、最高の心理学が含まれています。
 同じく社会全体も多様多彩であり、家庭も同様である。そうした、あらゆる性格、状況をよく知って、随縁真如の智を働かせ、適切な納得のいく指示を与えることがほんとうの指導である。その意味で、指導は科学である。単なる精神主義だけであっては空転する場合がある。納得のいく指導によって、真の確信が生まれてくるし、また、そういう確信をつねに与えなくてはなりません。
 残る十一月、十二月と、生活面でも、本年の有終の美を飾ってもらいたい。仕事はその人の生命である。それに、真剣に励んで勝利者になっていく、これは個人における立派な広宣流布です。そのさい、誠実のみが最後の勝利をつかむ、また、人の心を完全につかむことができるということを、決して忘れずに進んでほしいのです。
 交通事故にも十分気をつけて、再び来月の幹部会で元気にお会いしましょう。

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