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日蓮大聖人・池田大作

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第1回全国登山責任者総会 大石寺は生命の故郷

1970.9.30 「池田大作講演集」第3巻

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1  大日蓮華山富士大石寺の法灯は、実に連綿として第六十六世の血脈の法水にわたらせられます。その総本山への登山は、日蓮正宗の信徒として、信心修行の最重要行事であることは当然であります。
 その崇高なる登山回を推進する登山責任者の第1回総会が、総本山より早瀬総監をはじめ御僧侶方、ならびに法華講からも委員長をはじめ代表の方々のご出席をいただいて、かくも盛大に行なわれたことは、まことに喜びにたえない次第であります。
2  猊下に応え総講頭の大任全う
 最初に申し上げておきたいことは、私自身のことになって恐縮でありますが、本日は法華講総講頭として、初めて公式の場でお話をさせていただきます。
 もったいなくも、私が日達上人猊下より総講頭の大命を拝したのは、昭和三十九年、大客殿落慶の時でありました。
 私としては、まず、建設途上にある学会の繁栄のため、学会員の指導だけに専念したい気持ちでありました。故に、総講頭などという大任には、たえられないと思い、ご辞退申し上げたかったのであります。
 しかし、猊下のたっての御命であり、お受けした次第であります。その後、四十一年の春には、辞表を奉呈しましたが、猊下よりなんとしても信徒を統括し、生涯にわたって総本山の外護の任を全うするようにと再三にわたり申された次第であります。故に、やむなく辞表を撤回したことがあるのであります。
 もとより、微力ではありますが、猊下のお心に応えるため、今日にいたるまで誠心誠意を込めて、ご奉公に努めてまいりましたし、生涯、お仕えしていく決意は、すでに変わりはありません。
 今の私の心境は、すでに会長就任満十年を経過し、創価学会も数々の風雪を乗り越え、もう盤石である。力なき私ではありますが、全信徒を統括し、宗門を外護せよとの猊下のお心に応え、法華講総講頭としての任を全うし、ご報恩の誠を尽くしたい所存であります。今後とも、よろしくお願いいたします。(大拍手)
 正本堂の建設も順調に進んでおり、十月十二日には上棟式を営みます。そして完成の四十七年十月から落慶記念の一千万総登山という大行事が行なわれます。それにともなって、登山会の規模も飛躍的に大きくなり、重要になっていくことは疑いない。それを遂行する登山責任者の皆さん方の責任は重いし、同時に福運もまた大きい。「信は九識にあり、修行は六識におけり」との御聖訓を実践して、初めてまことの正法の大信者といわれるのであります。
 そこで、登山する根本精神を再確認する意味から、登山会の歴史、登山することの意義を振り返り、更に、登山会の今後の構想について述べてみたいと思います。
3  宗史に刻んだ登山精神
 はじめに、登山会の歴史についていえば、日蓮大聖人ご在世当時、身延の沢におられた日蓮大聖人のもとに詣で、お目通りしたことに始まります。
 交通不便ななかを、さまざまの御供養の品を携え、大聖人のもとへきて種々ご報告し、また指導をうけたのです。
 特に、阿仏房は九十歳という高齢の身で、佐渡から身延まで三度も大聖人をおたずねしている。その大聖人を純粋に慕う心、求道心は登山する者の永遠の鑑であります。
 今回の上棟式に参加するため、ブラジルより八十四歳の老婆が勇躍、登山しております。これこそ、まさしく“昭和の阿仏房”である、と私は賛嘆したい。
 日蓮大聖人亡きあとも、この精神は変わらず、二祖日興上人を慕って、多くの信徒が訪れ、日興上人にお目通りするとともに、信仰の根本の御本尊として、本門戒壇の大御本尊にお目通りした。
 身延が謗法の山と化し、日興上人が大御本尊を奉持して富士大石寺に移られて、人々もまた富士大石寺に登山するようになったのであります。
 以来、日蓮正宗は数々の弾圧のなかを、苦難の歴史を歩んできたが、全国の信徒にとって、大石寺に詣でることは、生涯の願いであり、喜びであった。
 かの、仙台法難の中心人物であった覚林房日如という人の書いたものに、信徒に対して登山の心得を指示した文書があるが、そうしたもののなかにも、大石寺登山がいかに大きな目標・目的であったかがうかがわれる。
 昭和五年に創価学会が創立され、昭和十一年から牧口初代会長を中心に夏季講習会が行なわれている。団体で行なわれたのは特殊な場合だけであった。多くは個人、または法華講であれば講中などの小規模単位で行なわれたようであります。
 戦時中は軍部の弾圧によって、総本山も学会も衰微のどん底に陥っていた。そして戦後、昭和二十一年の正月、戸田前会長が初登山を再開されたときは、参加者は合計わずか七名にすぎなかったと聞く。
 以後、夏季講習会、正月登山、あるいは重要行事のさい等々の登山が行なわれてきた次第でありますが、いずれも規模はきわめて小さいものであった。
 小説「人間革命」に書いておきましたが、月例登山会が始まったのは昭和二十七年の十月からであります。その最初の参加者は三百八十余名。もちろん団体列車などなく、富士宮から総本山までの道も交通は非常に不便をきわめたわけであります。
 この小さな第一歩から出発して、一年後の昭和二十八年十月には、月間四千人の登山者をみるまでになった。登山会の回数も月一回から月二回となり、昭和二十九年には月三回、昭和三十年には月四回となりました。
 御開も昭和三十年暮れ、奉安殿ができるまでは小さな御宝蔵で行ない、しかも多くは石畳の上に座らなければならなかった時もあります。しかし、大御本尊を拝む歓喜にあふれ、真剣な祈りのなかに、登山した人々は必ず全員といってよいほど、偉大な生活革命、人間革命の実証を示してきております。
 昭和三十三年三月には大講堂が落慶し、その記念登山として一か月二十万余という、かつてない大登山が行なわれました。そして昭和三十六年度から、登山会は毎日行なわれるようになりました。
 そして今では、月間三十万近い人々が登山しておる現状であります。
 この間、昭和三十四年には、登山部が設置され、登山責任者制がしかれている。今日にいたるまで、これだけの大事業が、全く無事故といえるまでに完璧に遂行されてきたのは、実に偉大な歴史であり、それは全学会員の自覚の強さも当然でありましょうが、なかんずく、登山の任務にたずさわってくださった人々の、なみなみならぬ努力と祈りによる金字塔である、と私はここに心から感謝申し上げる次第であります。
 ちなみに、これまでの登山者数をみると、戸田前会長時代の昭和三十三年までは百余万人でありました。それに対し、それ以降、今日にいたるまでの数は、約二千九百万人となっております。
 したがって、延べ三千万人もの人が大御本尊にお目通りしたわけであり、まさに広宣流布眼前にありの感を深くするものであります。この壮大なる総本山へのご奉公は、仏法史上、いまだかつて類例がない、と私は申し上げておきたい。
 総本山へつどう人々も、いまや日本だけではなく、世界のさまざまな人種、民族にわたるようになりました。
 昭和三十七年、アメリカから飛行機をチャーターして二百七十三人が登山してから、毎年、海外各国からの登山者をみるようになり、昨年は三十七か国二千人が登山している。合計では、今までに八千人を越える。国内在留の外国人を含めると、優に一万人を越すであろうと思われます。
 この現実こそ、日蓮大聖人の仏法が日本一国のみでなく、全世界にひろまるべき宗教であり、総本山大石寺が世界の聖地である証拠である、と私は申し上げたいのであります。
 一方、法華講においても、昭和三十七年に法華講連合会が結成されてから、正月の初登山および春夏と、年三回、登山会が行なわれ、年間、約二万人が登山するようになっております。

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