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日蓮大聖人・池田大作

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第33回本部総会 人開勝利の大文化めざして

1970.5.3 「池田大作講演集」第3巻

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1  十周年の意義
 薫風さわやかな本日、総本山より日達上人猊下のご臨席を仰ぎ、多数のご僧侶のご出席をたまわり、そしてまた法華講の方々、ご来賓の皆さまにあたたかく見守っていただくなか、全国の代表幹部一万五千の同志とともに、かくも盛大に第三十三回総会を開催できましたことは、私にとって感無量であり、ここに厚く御礼申し上げるしだいであります。
 私は、本日を日達上人猊下のご登座十周年の祝典の日とさせていただきたいのであります。私が会長就任十周年を迎えることができましたのも、ことごとく、日達上人猊下のご威徳のたまものであります。私どもは、日達上人猊下がますますお元気であられますうよう、お祈り申し上げるとともに、本日の佳き日を、全信徒を代表して心からお祝い申し上げようではありませんか。(拍手)
 更に、この十年間、皆さま方の真剣な努力、精神によって、広宣流布の輝かしい時代を見事に築き上げることができました。力なき私を誠意の限りを尽くし、不眠不休の活躍によて守ってくださった皆さま方に対し、私は、ただただ感謝の言葉もございません。
 ありふれた言葉ではありますが、この胸にたぎる万感の思いを込めて、私は、全学会員の皆さまにお礼申し上げたい。ほんとうにありがとうございました。(拍手) 
2  建設の時代から完成期へ
 初代牧口会長は七年間、二代戸田会長も七年間、会長職を務められましたが、私は若いゆえに十年間もの長きにわたり、会長職を務めさせていただきました。ここに築き上げた広宣流布の一切の基盤は、全学会員の皆さま方の努力の結晶であり、全部、皆さま方のものであることを、ここにはっきり宣言しておきたいのであります。
 思えば、恩師戸田城聖先生は、昭和二十六年の就任当時、約三千世帯であった学会を七年間に七十五万世帯にして逝去されました。不肖私が、昭和三十五年五月三日、恩師の偉業の跡をうけて第三代会長に就任したとき、約百三十万世帯であったと記憶しております。それが十年後の今日、七百五十万世帯を数えるまでになりました。すなわち、恩師が亡くなられてより、十三回忌の本年四月二日までに約十倍の規模にまで発展させることができたわけであります。
 恩師のあの草創期の苦難の偉業にはとうてい及びませんが、この成果に対しては、必ずや牧口先生、そして戸田先生もよくやったと称賛くださっていることと、私は深く確信いたすものであります。(拍手)
 まさしくこの十年間は、あらゆる面で仏法史上でも類例をみない偉大な建設をなし遂げた期間でありました。現代において、はたして、この十年でこれほどの躍進と発展を遂げた団体、勢力がいずこにあるでありましょうか。皆さんは、誇りをもって、これからも前進していってください。
 この事実、この実証こそ、わが学会が、民族の、そして人類の新しい時代の潮流であることを如実に示すものであると、私は心から叫びたいのであります。(拍手)
 時代はいよいよ広宣流布の正宗分に入ったと申し上げたい。戸田前会長は、広宣流布の一切の原理と言論を残し、完璧なレールを敷かれました。私どもの十年は、このレールの上をひたすら一瀉千里で進んでまいりました。そて激闘の結果、順縁広布の広大な沃野が眼前に開けるまでに、いさいの舞台は整ったと言明するものであります。
 本日をまた再出発の起点として、これからの十年は創業の時代、建設の時代を終えて、完成期、総仕上げの時に入ったと銘記していただきたいのであります。もはや教勢拡張のみに終始する時ではなく、一人ひとりの社会での成長が、もっとも望まれる時運となってきたと申し上げたいのであります。
 この間、宗門、創価学会の一大目標であった正本堂が、ついに完成する運びとなりました。あの富士の裾野の大宝塔の湧現こそ、私は、とりもなおさず、皆さん方一人ひとりの胸中に絶対の幸福の宝塔が湧現していく象徴であると確信していただきたいのであります。
 それは即、新しい人生、新しい社会、新しい文化の門出の暁鐘であります。私どもは、昭和四十七年十月十二日の完成の日を楽しみに、妙法の燦たる誇りに燃えた人生を満喫しながら、仲良く、堂々と、再び前進を開始していこうではありませんか。(拍手)
3  広宣流布の本義
 私は、ここで広宣流布ということについて一言しておきたい。広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない。なにか特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても正しくないと思う.大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、つねに未来に広がっていく正法でもあります。大聖人は鎌倉時代当時をさしても広宣流布の時であると断言されておりました。
 それは、大御本尊という全民衆の信仰すべき法体を確立されて、そこから広々と、妙法の源流が流れていくことを確信せられていたがゆえに、たとえ一国謗法の時であっても、因果倶時で広宣流布の時であるとされていたと思うのであります。
 しかも大聖人が「末法万年尽未来際」と叫ばれたのは、それ自体、広宣流布の流れは、悠久にとどまるところがないことを示されたものであります。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります。
 正本堂建立は、これで終着点なのではなく、新しい広宣流布、すなわち、世界へ向けての妙法流布の開幕を意味するものであることは当然であります。
 いままで私どもは、本尊流布に全力をそそいでまいりました。その結果、学会の盤石な基礎を固めることができました。また、日蓮大聖人のご威光は全世界に輝き渡り、時代の要望してやまぬ新しき世界宗教の威容を整えつつあるといっても過言ではありません。
 これこそ、日蓮大聖人以来の法体の広宣流布が果実を結んだというべきであり、即、世界への化儀の広宣流布の始まりでもあると確信したいのであります。
 私は、この壮挙が再び因となり、末法万年にわたる、より広大な、より深い流れが滔々と万人の胸中に伝播していくことを信じてやまぬものであります。
 法体の広宣流布が土台であれば、化儀の広宣流布は、その土台の上に築く建物にたとえられます。すなわち法体の広宣流布が、社会の底流を築く戦いであるのに対して、化儀の広宣流布は現実社会の姿のうえに妙法が反映され、みずみずしい生命の泉が万人を潤していくことにほかならない。
 所詮、宗教は文化の土台であり、人間性の土壌であります。健全な宗教を失ったとき、文化は退廃し、人間性のなかに大きな空洞ができてしまうといえましょう。
 あとに述べるように、現代の文明、文化がかかえる病根は、まさしくそこにあると思うのであります。この時にあたり、新しい文化を築き、社会を蘇生させていくことこそ、私どもの使命ではないでしょうか。
 私どもも、この本義にもどつき、人間生活にもっとも直接に響く政治に重大な関心をはらってまいりました。しかし、公明党も誕生し、政界に新しい気風を送ったことで、一つの結果をもたらしたといえましょう。
 もちろん、政治が社会のすべてではない。宗教は、もとより、文化全体の根本問題にかかわるものであります。私は、学会員の一人ひとりが社会のなかで人間的に成長し、価値を生んでいくことが、本格的な広宣流布の展開であると意義づけたい。
 すなわち、めざめた民衆が万人をリードし、新しい社会、新しい文化を建設していく時代が化儀の広宣流布であるといえるのであります。
 私はこの意味から、広宣流布とはまさしく、“妙法の大地に展開する大文化運動”であると定義づけておきたいのであります。
 もはや、私どもは社会と遊離した存在であっては絶対にならない。一人ひとりが社会で活躍し、社会の人々の依怙依託となっていかねば化儀の広宣流布とはもはやいえない。
 すなわち、信心しているいないにかかわらず、一切の人々を包容し、一切の人々と協調しつつ、民衆の幸福と勝利のための雄大な文化建設をなしゆく、その使命と実践の団体がわが創価学会であると、ここに再確認したいのであります。
 そして、私どもは「社会に信頼され親しまれる創価学会」をモットーに、再びさっそうと、忍耐強く進んでいきたいと思いますが、いかがでありましょうか。(拍手)

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