Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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本物の信心で所願満足の人生を  

「池田大作講演集」第2巻

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1  日妙聖人御書にいわく
 SA029E
2  「我等具縛の凡夫」とは、苦悩をもち、迷いをもった私達凡夫のことです。そういう私達にあっても「忽に教主釈尊と功徳ひとし」と仰せのように、仏と同じ福徳をそなえるというのであります。
 そこで教主釈尊といっても、教主釈尊には、六種類あります。
 第一に蔵教の釈尊、これは小乗経を説く仏です。第二に通教の釈尊、第三に別教の釈尊、これら通・別の仏は権大乗教の教主であります。第四に法華経迹門の釈尊、これは実大乗教の法華経迹門を根底とする仏であり、三千の昔から化導が始まっております。第五に法華経本門文上の釈尊、これは第四の迹門の釈尊とは違い、五百塵点劫という違い過去より衆生を教化してきた仏であります。釈迦仏法においては、本門文上の釈尊が究極に位する仏であります。
 第六に法華経本門文底の釈尊があります。すなわち久遠元初自受用身・即南無妙法蓮華経の教主・日蓮大聖人であります。
 このように、教主釈尊といっても、教法によって六種の相違があるわけです。釈尊という名は同じでも体が異なることを知らなければなりません。
 末法今日、教主釈尊とは、最高の法たる妙法を私達民衆に説き示した日蓮大聖人であります。大聖人の御命は妙法の当体であり、そのご生命を一幅の御本尊に顕現され、書き顕わされたのであります。すなわち、御本尊は宇宙生命の縮図ともいえます。
 御本尊は人法一箇でありますから、人に約すならば、日蓮大聖人とも教主釈尊とも仏とも拝するのです。名は異なっていても、その実体は同じであります。
 御本尊を信受することによって、たちまちに宇宙大の功徳を包含された御本尊と等しい功徳をうけることができるのです。”たちまち”とは即座、またはすぐにという意味です。すなわち「受持即観心」であります。
 「彼の功徳を全体うけとる故なり」とは、大御本尊の功徳を、全部、我が生命にうけることができるということです。すなわち、私達の生命のなかに、仏界・南無妙法蓮華経が全部湧現する。全宇宙に、湧現していくという原理であります。
 「経に云く『如我等無異』等云云」――法華経方便品に「我が如く等しくして異ること無からしめん」といっているのは、仏といおうが、凡夫といおうが差別はない。妙法という原理にあてはめてみれば、全部同じであるということです。仏法のなかでも法華経以外は全部、勝劣があり、仏は偉く、衆生は無知というように、断絶があります。現今の学校紛争も同じです。教授と学生、先生と生徒との断絶があります。本来ならば先生と生徒が、十分にコミュニケーションがとれて、ともに信頼しあい、同じように進んでいる、研究しているというのが理想でしょう。ところが時代の進展とともに、先生が次第に進まなくなってきた。そこに断絶が生じてきたのです。それに比べて、日蓮大聖人の仏法は矛盾がない。欠陥がない。どこからみても完璧なのです。それは、仏と私達の生命とは、実をいえば”異りあること無けん”なのです。仏の生命と同じであるということは、自由自在の境涯になれるということです。
 「法華経を心得る者は」――この法華経は、南無妙法蓮華経という末法の法華経です。
 法華経には三種類あります。第一は釈迦の説いた法華経二十八品、第二は天台大師の論じた摩訶止観という法華経、第三は日蓮大聖人が唱えた南無妙法蓮華経――五字七字の法華経の三つです。五字七字の法華経こそ末法万年尽未来際の衆生を救いきり、人類を救うことのできる根本法であり、それが御本尊です。この「法華経を心得る者」とは、実践する者、信心する者と拝するわけであります。
 すなわち、今、私達は、末法万年尽未来際の人類救済、絶対的恒久平和を築く先駆けをしているのであります。しかし、まだ末法に入って千年を経過しておりません。万年の土台を築いているのですから、大変ともいえます。したがって、さまざまな批判もありましょう。そのかわり、功徳も絶大であります。こうした意味のことは、大聖人は種々の御書で示されています。末法万年尽未来際の全人類を救うという崇高な使命と誇りをもちましょう。これほど張り合いがある人生はないのではないでしょうか。
 「法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり」とは、御本尊持ち、信心・実践する者は、釈尊、すなわち日蓮大聖人と全く等しいという御文です。
 「譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是を諍うべき」――たとえば父母が和合して子供が生まれます。その子供の身、生命というものは両親の分身であり、その身全体が父と母が和合したし色心一如の生命としてあるものです。これは宇宙本然の道理であり、自明の理であります。
 「牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王と・なるいまだ人王・天王とならず」――牛の子は牛、獅子の子は獅子、人間の子は人間と、これが道理であります。牛の子が獅子となったり、獅子の子が人間となるようなことはありえません。
 したがって、以上の道理から、次のように仰せなのであります。
 「今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事・難かるべからず」と。
 「法華経の行者」とは、別しては日蓮大聖人が法華経の行者であり、総じては大聖人のご遺命をそのまま実践する私どもも、立派な法華経の行者となります。
 法華経の譬喩品に「其の中の衆生は悉く是れ吾子なり」とあって、一切衆生は教主釈尊の子供であると説かれています。すなわち、この経文を引用して、私達を大聖人の子供であると仰せなのであります。仏の子であるが故に「教主釈尊のごとく法王とならん事・難かるべからず」とも仰せであります。
 「法王」というのは、人王・天王というような今世限りのものや、時代が変わればだめになる有限的な王ではなく、宇宙大の広がりをもち、時間的にも永違性のあるものであります。そして民衆を、ありとあらゆる人々を包容し、引導し、本源的に救うのが法王であり、仏であります。
 したがって、仏の子であり、法王となっていくのだとの仰せは、大聖人と同じ振る舞い、境涯、福運となっていくというお言葉なのです。どうか一人一人がこのお言葉を我が生命に、生活に、社会に実証していっていただきたい。
 人の悪口ばかりいう法王、いつも退転ばかりする法王、貧乏でいつも悲しんでばかりいる法王、仏などは、いないはずです。この御文を通して大聖人は、本物の信心をしなさい、本物の題目をあげなさい、と私達を大きく包容し、激励してくださっているところなのです。
 信心のかなめは、ただ一点、御本尊に純粋に、真剣に願い祈る――それだけであります。あとは一般の社会人と同じです。常識豊かな庶民でいいのです。それで全部変わっていくのです。
 本気になって、信心を二年、三年と続けていくならば、今までの何十倍、何百倍もの境涯を開くでありましょう。そして所願満足の人生を築くことができるでありましょう。それは確信をもって申し上げます。
 永遠の青年として、最も美しい強い信心のつながりをもって、私とともに前進してください。

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