Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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祈りある信心で実証を  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  日厳尼御前御返事にいわく、
 SA021E
2  願いがかなうか、かなわないかは、結局、本人の信心の強弱によるのです。信心の”信”についていえば「無疑曰信」ということで、すなわち、疑い無きを信というのです。御本尊に対する絶対の確信――この信心の一念が無疑曰信です。次に信心修行に約せば、いかなる難、いかなる障魔が競い起ころうとも、純粋に御本尊に唱題し、祈りきっていく強盛な信心の姿を「無疑曰信」というのです。
 御本尊の功力は偉大です。祈りが通じないのは念ずる一念の弱さによるのであって、「全く日蓮がとがにあらず」との仰せの通り、御本尊に力がないというのではない。決して日蓮大聖人の責任でもありません。ここを取り違えてはなりません。
 テレビのスイッチを入れたとき、画面がボヤけて鮮明に映らないことがあります。テレビそれ自体の故障による場合もありますが、それよりもむしろアンテナの位置やダイヤルの調整に原因があるようです。人が上手に調整すれば映像はハツキリしてくる。やはり調整する人間次第です。
 先日、久しぶりにカメラを持って写真をとろうとしたら、レンズのキャップを外すのを忘れていました。これでは、いかに最高級のカメラでも、いい写真がとれるはずがない。
 同じように、皆さん方も自閉症のように信心の心のなかにキャップをしていては、一念は御本尊に通じません。「御本尊は一枚の紙ではないか」――この信なき姿、疑惑に満ちた一念では御本尊の力を知ることはできないのです。
 「水すめば月うつる」――水は信心を意味します。月は御本尊の功徳のことです。池の水が澄めば、天の月はくっきりと水面に映るではありませんか。
 「風ふけば木ゆるぐごとく」――これは自然の道理であるとの意味です。風が吹けば木は自然に揺れます。
 「みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし」――生命の一念というものは水のようなものである。信心が強盛でない人、すぐに退転してしまう人は、結局、水が濁っているようなものです。したがって、濁れる水面には月は映らない。御本尊の功徳がわからないのです。退転していく人の多くは、この御本尊の力がわからないまま去っていくケースが多い。
 「信心の・いさぎよきはすめるがごとし」――「信心のいさぎよき」とは、祈りのある信心であり、一瞬一瞬、生命を躍動させ、限りなき前進を続ける信心のことです。祈りがあるということは必ず目標がある。”よし、御本尊に祈りきって、きようも一日元気で働こう””生命力を湧現して、価値創造をしていくぞ!”全部、決意であり、目標があります。”今年いつぱい一生懸命働いて、妻にはサファイアの指輪を、娘にはダイヤの指輪を買ってあげよう””立派な家を建てよう”あるいは”この一年間で百人の不幸な人を信仰に立たせていこう”――みんな祈りであり、信心の潔い姿です。だから祈りが一つ一つ御本尊に通じていく。境涯も大きく開けていく。要は御本尊に体当たりでぶつかって唱題に励むことです。
 百万冊の哲学書を読むよりも、千人の学者に話を聞くよりも、一遍でも御本尊に唱題をするほうが、どれほど価値創造の人生を歩むことになるかしれません。人生は理論でなく、実践です。現に御本尊に唱題することによって、自己の生命が躍動を始め、革新の一念は、境涯を開き、宇宙に遍満し、それを生活のうえに価値創造していくことができる。またそれが即社会に貢献していけるのですから、仏法は偉大ではありませんか。
 その証拠に、創価学会は七百五十万世帯を越えても微動だにせず、喜々として社会の革命に邁進しているではありませんか。
 それにひきかえ他の団体は本当に大変です。内部は金、利害、損得、名誉欲がウズ巻いており、悪循環ではありませんか。創価学会の批判をするのは、結局、全部やきもちの域を出ず、自分達がやりたくてもできないというフラストレーションのあらわれではないでしょうか。
 「木は道理のごとし」――風と木の関係にたとえれば木は道理にあたります。
 「風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ」――我々の宿命というものはどう打開すべきか。それは「経文をよむがごとしと・をぼしめせ」とあるように、題目をあげていく以外ない。それは即実践活動になります。風を吹かせていく原動力は唱題に尽きる。木を自由自在に揺るがすことができるし、葉を吹き飛ばすこともできます。と同じように、道理を揺り動かして、事実の証明をしていくことができるのです。宿命という、どうしようもないものを、自分で題目をあげることによって、いくらでも左右することができるとの御文であります。

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