Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創価学会を守る信心を  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  開目抄下にいわく、
 SA020E
2  この御書を本当に色読・身読できれば、仏法の真髓を実践したことになります。その人は日蓮大聖人の弟子として、究極の大信者であります。この一節を将来への一つの指針としていただきたい。
 「我並びに我が弟子」――大聖人ならびにその弟子のことで、師弟不二を意味します。このように、大聖人は、必ず私達をご一緒に加えてくださる。そこには断絶など微もありません。同じく会長と会員も別ではありません。同志です。
 「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」――どんな現象があっても、どんなに批判をうけようと、新聞で悪口を書かれようと、かまわない。あくまで私達は、正々堂々と広宣流布のために一生懸命戦えばよいのです。また隣近所から悪口をいわれることもある。思えば、私達も信心して初めて信心のすばらしさがわかったのですから、仏法をわからない人が批判するのもやむをえないと思う。
 「諸難ありとも」とは個人的な宿命、それから広宣流布の道程に立ちはだかる難です。どんな難があったとしても、少しも疑う心なく、ただ御本尊に祈り、題目をあげ、学会とともに進んでいくことです。そうした人は自然に仏界にいたり、やがて大功徳をうけていくのです。
 「天の加護なき事を疑はざれ」――すぐに功徳がないからといって、また、信心しても生活がよくならない、といって嘆かなくてもよい。現世の安穩は間違いないと大聖人が朝夕教えているのに、なにか事件があるとみんな疑いを起こして信心をやめてしまう。これは、つたなき者のならいです。疑わないで、実践していけば、必ず功徳があると約束しているのに、いちばん大事な時に忘れてしまうのです。世間でもそうです。いわんや仏法においてはなおさらです。
 現在、日蓮大聖人の仏法を、ご遺命通りに実践している団体は創価学会です。学会員として、水のように、断絶をつくらず、どんなことがあってもどこまでも流れていき、粘り強く、常に前へ前へと進んでいくことが大事なのです。会合があれば、人はどうあろうとも自分は必ず出席する、どんなことがあっても勤行していく――こう決意して実践していく人が水のごとき信心の人であります。この人は必ず成仏の境涯にいたる。想像外の幸せを享受できます。いつのまにか、思いもよらぬ境涯の自分自身が築かれているというのが、これが本物の信心なのです。
 また信心とは、いざという時が大事なのです。大聖人が竜の口で法難にあわれましたが、その時、四条金吾は、はだしで駆けつけて、大聖人の馬の轡をとって泣き、大聖人を守られた。この心がなくなったら、人間として堕落です。
 いざという時にこそ、大福運を積むのだ、宿命転換できるのだ――こう自覚していくことです。いざという時の信心が、その人の日常の生命の姿勢を、ことごとく映し出してしまう。だから普段の信心が大切なのです。普段、まっすぐに忍耐強く、水の流れるような信心をしてきた人は、いざという時にも不変です。そういう人が信心強盛の人であり、偉いのです。十年、二十年、三十年と信心を全うしてきた人は、宝のなかの宝です。こういう人こそ大聖人からほめられ、三世十方の仏・菩薩から賛嘆され、自分自身の倶生神からもほめられる。ということは、因果倶時で、その人は永遠に栄えていくということです。
 いざという時とは何か。これは一つには自分の宿命打破の時ですし、また大きくは、法難にあった時とか、学会が大変な困難に直面した時です。このとき、毅然として、日蓮大聖人の御金言通りに学会についていく、断じて学会を守っていく、御本尊を守るという人が、地獄から転じて、仏界の方向に向かう位置に入るのです。これが生涯の福運を決定していくのです。

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