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日蓮大聖人・池田大作

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折伏こそ末法の修行の根本  

「池田大作講演集」第1巻

前後
1  ともかく、百万、二百万の人達が、団結し、たくましく座談会を推進していることは、他の団体では、想像もできないことであり、社会に広大な波紋をなげかけ、時代の湖流を起こしているといえましょう。このまま広宣流布を目指して、足音も高らかに秩序ある行進をしていけば、やがて三百万となり、九百万、一千万へと伸びていくことは間違いないでありましょう。
 いろいろご苦労であるとは思いますが、座談会の充実以外に、模範的な仏道修行の道場を築き、和合僧の学会を永遠に栄えさせていく道はないと確信し、どうか、この歩調を忘れないで、頑張っていただきたい。(大拍手)
 折伏は、末法において日蓮大聖人の仏法を修行するき極中の究極なのです。折伏さえなければ、こんなにいい信心はない、という人もいるかもしれませんが、それは大きな誤りです。末法化儀の骨髓は折伏であり、他の一切の活動は枝葉といっても過言ではありません。
2  折伏の精神について
 この意味において、御書を二、三ひもとき、折伏の精神を確認しておきたい。
 まず、日興遺誡置文のなかには「弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事」とあります。「弘通の法師」とは、現代でいえば、折伏を行ずる人ということです。すなわち、折伏を実践する人は「下輩為りと雖も」――どんなに役職が下であっても、社会的な地位がなくても「老僧の思を為す可き事」――老僧、つまり最高に尊い人と尊敬すべきである。また、幹部の立ち場で読むならば、そういう人を最高に大事にしなくてはならない、という意味であります。
 同じく「巧於難問答ぎょうおなんもんどうの行者に於ては先師の如く賞翫す可き事」と。「巧於難問答の行者」とは、折伏、指導等、一切の活動に真剣に取り組み、大聖人の仰せ通りの実践をしきっている人といえましょう。その人達に対しては「先師の如く賞翫す可き事」――大聖人が弟子達をほめたように、ほめたたえ、大事に守り育てていかなくてはならない、ということです。
3  更に、法華初心成仏抄にいわく「此の大白法を信じて国土に弘め給はば万国に其の身を仰がれ後代に賢人の名を留め給うべし、知らず又無辺行菩薩の化身にてやましますらん、又妙法の五字を弘め給はん智者をばいかに賤くとも上行菩薩の化身か又釈迦如来の御使かと思うべし」と。
 「此の大自法を信じて国土に弘め給はば万国に其の身を仰がれ」とは、三大秘法の御本尊を信じきって、日本の国、社会にひろめていくならば、すなわち、折伏を行ずるならば、日本国のみならず、全世界から尊敬されていくとの御金言です。
 そして「後代に賢人の名を留め給うべし」――後世にまで、賢人の名を残し、尊敬されるという意味です。事実、熱原の三烈士をはじめ、いずれの時代にあっても立派に法難と戦った人、近くは、牧口初代会長、戸田前会長の奮戦は、世界中にひろまり、賢人の名をとどめています。と同じように、微力ではあっても、私どもの実践が、子孫末代の繁栄につながっていくと、拝読していくべきであります。
 また「又妙法の五字を弘め給はん智者をばいかに賤くとも上行普薩の化身か又釈如来の御使かと思うべし」とは、真剣に戦っている人は、どのようにしい身分の人であっても、大聖人の真実の使いであると拝することができるのです。すなわち、折伏を行ずる人のみが、上行普薩の実践にかなっているのであり、上行菩薩の境涯に立ち、上行菩薩の使命を担っている人であるともいえます。
 その人が不幸になるわけは絶対にありません。たとえ今はどうあろうと、絶対に幸福境涯を具現することができます。これこそ最高に価値ある人生をしているのだ、という深き確信をもって、おのおのの力、境遇に応じて、勇敢に折伏を実践し、学会を守る活動を私とともに展開していただきたいと思います。

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