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日蓮大聖人・池田大作

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山口大会・島根大会・広島商科大会・下関… 王仏冥合は歴史的必然

1969.3.8 「池田大作講演集」第1巻

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1  きようは、将来、諸君が史観という問題を考える場合の一助として、そのポイントを取り上げて述べておきたい。というのは、広宣流布の進展につれ、どうしても妙法を根底にした歴史観、すなわち仏法史観を通して、王仏冥合実現のビジョンを示すことが必要になってくるし、現実に既成の史観の欠陥、矛盾といったものも、更に研究していかねばならなくなってきている。そういう意味から、それを中心に雑談的にお話ししたいと思います。
2  既成の史観と仏法史観
 最初に、現代の最先端をゆくものとされてきたのが唯物史観(または史的唯物論)です。この唯物史観は、十九世紀中ごろに、マルクスとェンゲルスによって打ち立てられた科学的社会主義の社会観・歴史観で、社会が変化・発展する条件と原因を弁証法的唯物論の立ち場から説明しようとするものです。
 しかし、その法則は、当時まで欧州社会で不動の地位を占めていた観念論的史観の″物質不在″という欠陥をついているところに正当性を認めることができても、それ自身″意思不在″という重大な欠陥をもっている。
 つまり、精神は物質の副産物であるとする唯物論では、物質にはたらきかけ一切の価値創造をなしていく主体としての″意思″そしてその本源をなす″生命″というものは除外されてしまうのです。
 そのうえ、弁証法の論理により、人間社会の最終形態として、共産主義社会の実現の歴史的必然性を説いておりますが、もし、弁証法的発展法則が絶対的な原理であるなら、その共産主義社会自体に対しても適用されなくてはならないことになる。ところが、彼らは共産主義社会に到達する過程に関しては正反合の論理をあてはめながら、共産主義社会そのものについては、この法則の適用を認めない。ここに、大きい不合理があるといわざるをえないのです。
 あえて、論ずれば、正反合の弁証法的発展法則を適用したとき、共産主義社会が否定されて、次に新しく移行する体制とは、三大秘法の仏法哲理を根底にしたものでなければならないと申し上げておきたい。
 およそ、正反合の弁証法的発展を促す本源力は、人間性への回帰であり、人間の意思であります。マルクスが、十九世紀の非情な資本主義社会の実体をみて、共産革命の必要を訴えた最大の動機、願望は人間性の回復であったといわれている。ソ連、中国の共産革命を成し遂げたのも、レーニンや毛沢東等の人間の力であった。社会が、その内部の矛盾から必然的に移行したなどというものではない。
 この人間自身の力を最高に尊重し、人間性の究極への回帰を実現するのが、私どもの仏法民主主義の体制であり、人間性社会主義の社会であります。人間の歴史の潮流、時代の趨勢は、厳然として、妙法を根底とした王仏冥合の社会に向かっていることを強く確信していただきたいのであります。
 今日の東西両陣営の対決は、キリスト教と、その亜流といわれているマルクス主義、すなわち共産主義の対立に起因しておりますが、その思想的対立の根本的解決の鍵を握っているのが仏法です。
 私どもの戦いは、生命の根本に戻って、新しい社会を建設する未會有の偉業なのです。したがって、多少、苦労がともなうのは当然ではありますが、仏法史観からみて、すでに時代は、誰人も止めることができない、新社会への怒濤の奔流のなかにあることを確信して、希望に満ちて前進していってください。
3  思想・理念が社会の生々発展を決める
 ここで、妙法の鏡に照らして、歴史をさかのぼって考えてみたい。
 まず、釈迦当時のインドでは、御書にもある通り、九十五派のバラモン外道の哲学が乱立し、競い合っていたが、その思想は、いたずらに生活から遊離し、形而上学的な神秘主義がもてはやされた。その一方、有名なカースト制度が深く根をおろし、社会全体に沈滞した空気をつくるとともに、その沈滞のなかから、刹那的な享楽主義が芽ばえ、はびこっていた。この様相は、現代の我が国と酷似しているといえます。そこに釈迦仏法がおこったわけです。
 いかなる時代の転換も、思想と思想の戦いから始まり、それがやがて制度を変え、社会を改革していく。その場合、どのような思想、また理念をもっているかということが社会の生々発展を決めてしまうのです。
 この方程式にしたがって釈迦時代の広宣流布は進められ、健全で合理的な仏法が、一切の外道を打ち破り、生命の尊厳を確立して、自由と平等の生き生きとした時代を具現していったのです。
 それから少し時代が下って、インドのマウリヤ朝の時には、阿育大王が出現して全インドを統一した。そして釈迦仏法としての、王仏冥合実現の象徴といえる立派な政治を行ないました。この時代、国威は大いにふるい、インド人は続々と国外に進出し、インド始まって以来の文化の興隆を示したといわれています。仏法の慈悲を根底とする福祉政策が実施され、見事な制度がしかれました。当時としては珍しく死刑も廃止されていたのです。
 この阿育大王は、イギリスのH・G・ウェルズも、著書「世界文化史概観」のなかで「帝王中最も偉大なる帝王」と、絶賛を惜しまないほど、後世に名を残したのです。しかし、私がここで最も強調したいことは、かつては仏法を根底として、これほど理想的な政治が行なわれていながら、なぜインドで仏法が滅び去ってしまったのかということです。現在、インドでは、九〇㌫近くがヒンズー教徒で、仏教の信者は、わずか一㌫にも満たない(「世界年鑑」一九六八年版)といわれています。同じく末法万年尽未来際まで滅びない力ある大仏法であるといっても、油断すれば減びてしまう。"法は人に依って昌え、人に依って滅びる"のです。その原理を、一人一人が深く銘記し、ともにインドの仏法滅亡の推移を探ってみたい。

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