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日蓮大聖人・池田大作

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2 地球的問題群とNGOの役割  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

前後
1  池田 二〇〇〇年の五月にニューヨークで、国連の「ミレニアムNGO(非政府組織)フォーラム」が開催されましたが、国際社会におけるNGOの役割は、非常に高まっています。
 第二次世界大戦が終結し、国連が創設されて以来、その歩みとともに、NGOの役割は、飛躍的に拡大してきました。一九七〇年代にはすでに、人間の活動に関するあらゆる分野で、市民による自発的な組織が生まれたと言われています。あるデータによれば、一九〇九年にはわずか百七十六であったNGOの数は、一九九八年には二万三千を超えるにいたりました。
 これらNGOは、"草の根"のネットワークを広げながら、平和や軍縮分野をはじめ、環境、開発、人権、人道問題など「地球的問題群」の解決に向けて、多大な貢献を重ねてきました。その動きがとくに顕著となってきたのは、冷戦が終結した九〇年代以降でしたね。
 クリーガー NGOは、行動する市民社会です。NGOは、狭い政府の国益という制約を受けませんから、国境を越えた重要な問題について、世界共同体が解決へと取り組むよう、その良心を喚起することができるのです。NGOの活動の一つの重要な転機となったのは何といっても、地球環境問題を討議するために、九二年六月にブラジルのリオデジャネイロで行われた「地球サミット」でしょう。
2  NGOに門戸を広げた「地球サミット」
 池田 確かに、地球サミットは、旧来の国連の会議とは異なり、NGOに大きく門戸を開いたものでした。会議の準備段階からNGOが参加しただけでなく、政府代表による本会議と並行する形で、NGOによる「グローバル・フォーラム」も開催されました。
 このような運営方式は、会議の正式名(国連環境開発会議)の略称にちなんで「UNCEDプロセス」と呼ばれていますが、きわめて画期的なものだったと言えます。
 以来、こうした運営方式が、同じく九〇年代に行われた、「人権」「人口」「女性」「居住環境」をテーマにした一連の国連会議でも踏襲されるようになったのです。
 クリーガー 「地球サミット」は、国際社会におけるNGOの力を気づかせる上で、大きな役割を果たしました。NGOの多くはそれまでも、重要な成果をあげてきました。しかし実際のところ、いくつかの例を除けば、国内においても国際社会においても、NGOは各国の政府から、おおむね無視されてきたのです。地球サミットは、こうした状況を打開する一つのきっかけとなりました。
 池田 地球サミットで事務局長を務めたモーリス・ストロング氏は、会議の開催を前にNGOの役割について、こう述べていました。
 「民衆を啓発し、民衆に情報を提供するNGOの役割は重要です。政治指導者が行動に移るのは、民衆のいい意味での圧力がある場合だからです」と。
 この点、クリーガー所長も、「政府の力を頼っていたのでは何もできない。逆に、民衆が連帯して政府を動かすことによって、平和も人権も築かれていく」と、鋭く主張されていますね。
 クリーガー ええ。私は、それを強く確信しております。そもそもNGOは、世界をどう見るかという視点が、政府とは異なります。政府は、この世界を「国益」というレンズを通して見がちですが、そうした制約にNGOは拘束されません。「国益」は「人間の安全保障」と一致する場合もありますが、どちらかと言えば、一致しない場合のほうが多いでしょう。
 それとは対照的に、NGOは概して、より幅広い視野に立ち、より人道的な観点から行動するのです。NGOのめざす利益は、国境にも国益にも制限されません。このことが、NGOに、より大きな自由をあたえ、道義的でグローバルな立場をとらせます。
 NGOには、貧困者や持たざる者、さらにはまだ生まれていない未来の世代をさえ代表する能力があるのです。私は、この能力こそが、国際社会における道義を実現する上での大きな力をNGOにあたえるものだと考えているのです。
 池田 重要なご指摘です。所長がおっしゃるように、「国益」だけを追い求める姿勢では、社会的な弱者への視点は二の次、三の次になってしまう。ましてや、未来の世代に対する配慮など、眼中にないといった状況をまねきかねない。やはり、民衆の"声なき声"にも耳をかたむけていくためには、草の根レベルで活躍するNGOの存在が不可欠です。
 たいへんユニークなNGOの存在として、クリーガー所長がアドバイザーを務められる「フリー・ザ・チルドレン」という組織がありますね。世界の恵まれない子どもたちを、強制労働や大人の搾取から救うために、青少年の手によって運営されているグローバルなNGOです。子どもたちが本当に必要としている支援を、同世代の視点から行おうとするもので、世界各地で成果をあげ、大きな反響を呼んでいます。
 私たちは、こうしたさまざまな立場に置かれた人々の声を、拾い上げ、代弁し、行動を起こしていかねばなりません。また、政府は、NGOの主張に、謙虚に耳をかたむけていくことです。それが結局、その国の民主社会の成熟度を高めることにもつながっていくのです。
3  「国家」でなく「民衆」に忠誠を誓う
 クリーガー 私は「フリー・ザ・チルドレン」とかかわっていることをたいへん誇りに思っております。このNGO組織は、クレイグ・キールバーガーとマーク・キールバーガーという二人の傑出した若者が創設し、彼らのリーダーシップのもとで活動しています。彼らは兄弟で、子どもたちのニーズに応える、偉大な"子どもたちの組織"を創り上げました。彼らの人間性には、無限の広がりがあります。
 NGOは、国家がもつ権力に"対抗する力"を提供できる存在といえるものです。ほとんどの政府はこれまで、国民に信託された以上の権利を握ってきました。
 ときに政府は、民衆から主権を奪い、それを民衆の幸福や福祉を損なうような形で行使することがあるのです。政府は、民衆の利益と一致しない、企業の利益のような強力な経済の力に左右されます。民主政治の根幹が企業献金に支えられている間は、政治家は民衆の利益以上に企業の利益を支えねばならない理由がつきまとうでしょう。これは、危険な状況であり、今日、多くの国々で起こっている現象なのです。このような状況のなかで決定されている政府の政策に対し、NGOは一つ一つの問題に即して代案を提示します。ある懸案事項に対して、個人が「国家」ではなく「人類」に忠誠を向ける場を、NGOが提供することもあります。
 今では、「人権」「軍縮」「開発」「平和」「環境」「人口」等々――重要な問題解決のためにNGOが提示する代案のほうを選択する人々がふえているのです。
 池田 よく、わかります。もはや、国際社会の重要な意思決定プロセスも、NGOの存在を抜きにしては語れない時代になったと言っても過言ではないでしょう。事実、所長が挙げられた分野においては、国家よりもNGOのほうが、より柔軟に、より適切な形で貢献できることが指摘されています。
 何よりも、こうした活動に取り組むNGOには、「人間の尊厳を、なんとしても守りぬきたい」との共通の感情が脈打っていると思うのです。人間が真に人間らしく生きられる社会を建設するためには、まず第一に、民衆自身が主体的に力を発揮する必要があります。"同じ人間として見すごすことができない"という、やむにやまれぬ思いこそが、「人間の安全保障」を地球上で等しく確立する基盤になると、
 私は考えるのです。
 クリーガー 私も、NGOの出発点はそこにあると思います。実際、NGOの多くが、苦しんでいる人々に直接、手を差し伸べるために、献身的な活動を行っているのです。NGOといっても、最初は、ごく少数の人々が政府の取り組みが不十分であることに気づき、みずから問題に取り組むことになって誕生したものが少なくありません。現実には、政府が人権侵害や環境破壊を許したり、「人間の安全保障」を脅かす政策を実施することもあり、政府自体が"問題の元凶"となっている場合さえあります。
 そんな状況に対して、"何か行動をしなければ"と身を乗り出して活動を始める――そういう少数の献身的な人々が核となり、NGOが組織化されていくのです。
 そして、これらの人々が発言し、行動するようになると、他の人々もその問題を聞きおよぶようになるのです。このように、ほとんどのNGOの組織は、人々の口伝えによって大きく成長していくのです。
 池田 やはり、原動力となるのは、一人の人間の「勇気」であり、「行動」であるということですね。それが、水面に石を投げた跡のように、共感の輪を幾重にも広げていく――。

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