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日蓮大聖人・池田大作

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3 核時代と「原水爆禁止宣言」  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

前後
1  池田 歴史学者のトインビー博士は、私との対談で、キリスト教の退潮以降、西欧に生じた精神的空白を埋めたのは「三つの宗教」であったと言われました。
 その「宗教」として博士は、「ナショナリズム」「共産主義」とともに「科学的進歩への信仰」を挙げられました。そして、「科学的進歩への信仰」は一九四五年にいたって、致命的な打撃を受けたと。
 科学が必ずしも人類の繁栄につながるものではないと、人類が痛烈に思い知らされたのが、第二次世界大戦でした。十九世紀、二十世紀を通じて、「知識の開発」は飛躍的な「科学の進歩」をもたらしました。しかし、前にも論じあったことですが、「知識」それ自体は、人類を根本的に救済する力を持つわけではなかった。「知識は神」ではなかったというわけです。クリーガー所長が財団の名前に冠した「核時代」とは、人間が科学を万能と過信し、科学をコントロールする責任を放棄してしまった時代とも言えるのではないでしょうか。
 あのアラモゴード砂漠での最初の核爆発の瞬間、「科学信仰」を正し、人間の主体性を取り戻すことは、「種の生存をかけた」人類の課題となったのです。
 クリーガー 私にとって「核時代」とは、科学技術が人間を絶滅しうるほど強力になった時代のことです。それは人類史上かつてないことであり、英知を発揮せずして、この時代に対処していくことはできません。にもかかわらず、核時代に入っても、何も変わらなかったかのような愚かな対応を続けているのが現状です。核による絶滅の危険に対する現代世界の対応は、決して十分ではありませんでした。
 池田 そのとおりです。「核時代」とは、人類誕生以来初めて、絶滅の淵をのぞいた時代です。「マンハッタン計画」を推進した科学者ロバート・オッペンハイマーの告白は、象徴的です。
 「私は、世界の死に神、破壊者となった」――世界最初の核爆発実験に立ち会った時、彼の心には、この古代インド叙事詩の一節が浮かんだといいます。
 クリーガー 核による絶滅の挑戦に対して、世界中の人々が最善を尽くして取り組まねばなりません。ところが、核兵器は、「核抑止力」という理論によって支え続けられ、その結果、史上最大の軍拡競争におちいってしまった。核抑止力理論には、核による報復の脅威が存在するのですが、この理論は、難問をさらにむずかしくし、悪化させてきました。核兵器の備蓄の巨大化を助け、正当化してきたのです。
 要するに、核抑止力理論は、知的にも、道徳的にも欠陥のある理論であり、過去には人類を絶滅の淵にまで追い込みました。この理論が、今日もなお、危険かつ浅はかな知識の産物であることに変わりありません。
 池田 所長の言われる核抑止理論の欠陥は、核戦略の最前線にいた多くの当事者によって、すでに明確に証言されていますね。かつてアメリカのケネディ大統領は「ダモクレスの剣」にたとえて、核と人間との共存が、いかに危ういものであるかを表現しました。水爆搭載機の墜落、核ミサイルの誤射といった危機一髪の事故がこれまで何度もありました。
 ゴルバチョフ氏も、アメリカとの軍拡競争をやめようと決意したのは、「政治指導部が決定していないのに、指揮管制システムのミスで核兵器が使われる」という危機を感じたからだと証言されています。また、キューバ危機、ベトナム戦争などにさいして、アメリカの歴代の大統領、政府首脳が、しばしば核兵器の使用を検討したことも明らかになっています。
 実際、「核時代」を振り返ると、広島、長崎の再現が起きなかったのは、核抑止力のおかげではなく、幸運にすぎなかったことがわかります。どんなに取り繕っても、核抑止論を許し、核兵器の存在を許すことは、私たち一人一人の「生存の権利」を、一握りの核保有国の為政者や、ある場合には、軍司令官や管制システムそのものに委ねるということです。それがどれほど危ういことか。人類はあまりに楽観的すぎるのではないでしょうか。繰り返しますが、指導者にも、民衆にも、「核の力」に打ち勝つ、人間の「善なる力」を呼び起こす「精神革命」が必要です。
 クリーガー そう思います。政治体制を変え、核兵器を廃絶する意思を、政治に起こさせる方法は何か。私は、その変化を要求すべき民衆が、目を覚まし立ち上がるところにこそあると信じています。私たちを核兵器の時代から脱却させる勇気のある指導者がいなければ、民衆自身が、指導者に行動を要求しなくてはなりません。民衆が先駆ければ、指導者も後を追うでしょう。この方法に、私は希望を見いだしています。
 核兵器のもたらす脅威は、全世界におよびます。地球という惑星に存在する人間一人一人におよぶのです。ゆえに、問題の解決は、一部少数の政治指導者、彼らの軍事顧問、有識者のみに委ねるべきではありません。核兵器を廃絶する責任は、「私たち全員」にあります。
2  生命の内面を探究せよ
 池田 そこが急所ですね。トインビー博士の言われた「科学的進歩への信仰」は「人間精神の軽視」と表裏一体のものです。師の戸田第二代会長は言いました。
 「科学は、われわれの生命の外界を見つめることから出発している。したがって、生命が依存する外界については、最後まで究めつくすことができるであろう。しかし、この外界が、いかに究めつくされたとしても、それだけでは生命それ自体の幸福、また人類社会の平和にはつながらない。ゆえに外界だけではなくして、一人一人の生命の内面の世界へ探究を進めていくことが、どうしても必要となる。この『生命の哲理』を根底としてこそ、科学技術をリードして、世界平和に貢献していくことができる」
 クリーガー 重要な洞察です。外界と内面の世界は結びついていなければなりません。
 道徳から切り離された科学は、人類の将来にとって危険です。
 私たちは、核廃絶を喫緊の問題ととらえて、民主主義の行動を起こさねばなりません。世界各地の人々が、それぞれの責任を自覚し、「これは政治の指導部に委ねるべき問題ではない」と認識する必要があります。また同時に、政治指導者に対しても、責任ある行動を要求しなくてはなりませんが、政治的意志は、まず民意から喚起されるべきです。加えて、「核兵器は絶対に使用しない」「核兵器の実験を停止する」という協定だけでは、十分ではありません。
 人類の安全保障を確実にするには、核兵器を「廃絶」するしかありません。これまで政治指導者たちは、国民の前に核拡散防止の協定や、核実験停止の協定や、一部の核兵器の解体協定を掲げることによって、国民を懐柔しようと図ってきました。これらの方策は、いずれも、核兵器の脅威を終わらせるには不十分なのです。
 池田 確かに、さまざまな条約が結ばれましたが、核の脅威は、今も本質的には何も変わっていません。
 クリーガー ええ。脅威を終焉させるには、一つの方策――核兵器の廃絶しかありません。
 そもそも核兵器は、人間のあるべき品性に反するものであり、生命を全滅させる"運搬可能な焼却炉"です。人間精神のもっとも深い闇が反映されたものであり、「完膚なき破壊」を象徴するものなのです。
 池田 全面的に賛成です。核廃絶は、政治的駆け引き、外交交渉の論理だけでは、実現できません。核廃絶の最大の困難さは、技術的問題もさることながら、一度手にした核兵器の技術を「永久に使わない」という、人類的合意をとりつけるところにあるからです。
3  核兵器は魔性の産物
 クリーガー 戸田城聖氏をはじめ、多くの人が要請したように、「尊い生命を全滅させる」という核兵器の悪との闘いは、「生命を守る闘い」です。「人間の品性、尊厳、そして生命それ自体を守る闘い」です。この闘いは人間精神を高貴にする活動です。
 池田 そのとおりです。クリーガー所長は、核兵器を「人間精神のもっとも深い闇の反映」と言われましたが、戸田第二代会長が「原水爆禁止宣言」で強く訴えた点も、そこにありました。
 クリーガー 核廃絶の闘いは、人間性を物質主義よりも高みに置き、精神性を、頭で考えた言い訳よりも高みに置くものです。それは、抑止力理論につきものの知性の落とし穴である、「安全保障は、国々を『すべて焼きつくすぞ』と脅かすことで達成される」と信じる愚かさを明らかにしていきます。そのような考えは、安全保障ではありません。人間精神のどうしようもない堕落です。精神性を知性の下におくことの危険を、示しているにすぎません。
 池田 核兵器とは、「生存の権利」を脅かす「絶対悪」であり、核廃絶なき「平和」は虚構です。この核兵器の本質を、民族でもイデオロギーでもなく、人間の「生命」という地平に立つことによって明らかにしたのが、一九五七年(昭和三十二年)九月八日の「原水爆禁止宣言」だったのです。
 「もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」(『戸田城聖全集』4)と。
 むろん、戸田会長は仏法者であり、「死刑制度」には反対でした。あえて「死刑」という言葉を使ったのは、原水爆を持ちたいという人間の「魔の衝動」に、楔を打ち込み、原水爆を使用しようとする魔を絶滅させたかったからにほかなりません。「死」という言葉の対極にある「生」を確かなものとするためです。
 クリーガー 「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもつ」との戸田城聖氏の宣言は、シンプルな智慧の表現です。戸田氏は、「死」よりも「生」を価値あるものとし、普遍的な「生存の権利」があることを強調しておられますが、この権利は世界人権宣言の中に謳われているもっとも重要な権利なのです。
 シンプルさゆえに、その智慧の深さは、すぐには理解されないかもしれませんが、そもそも智慧とはつねに、シンプルなものです。
 池田 師はいつも、物事の本質をずばりと、しかもだれにでもわかる平易な言葉で語りました。傑出した民衆指導者でした。
 「宣言」でいう「魔もの」を簡単に説明すると、こういうことです。仏法では、人々の生命を奪い、智慧を破壊する働きを「魔」とし、その頂点として「第六天の魔王」
 の存在を説きます。「第六天の魔王」とは「他化自在天」とも言い、他を支配し隷属させようとする、人間の内なる強い欲望のことです。戸田会長は、核兵器をこの「第六天の魔王」の産物と喝破したのです。「核兵器」は、「科学の進歩」によってもたらされましたが、本源的には人間の生命の「負」の衝動が生みだしたもの、ととらえたわけです。この核兵器の「正体」を見抜き、戦い抜けと訴えたのです。
 クリーガー 私は「第六天の魔王」については詳しく存じあげませんが、その魔王が生命を奪い、智慧を葬ることを喜びとする存在ならば、それは人類の味方ではありません。なぜ核兵器を、この「魔王の産物」だと戸田氏が呼ばれたのか、私はよくわかります。まさに核兵器は生命を奪い、智慧を葬る手段です。
 池田 「魔」とは古代サンスクリットの「マーラ(魔羅)」に由来し、「殺者」「能奪命者」などとも訳します。魔王とは、生命の外にあるものではなく、「万人の心」に備わる働きです。ゆえに「万人の心」に呼びかける精神闘争が、核廃絶には不可欠なのです。
 さて、「原水爆禁止宣言」から四十年以上が経ちました。核兵器を取り巻く世界はどう変わったでしょうか。
 冷戦が終結した時、世界の人々は「平和の到来」を期待しました。核廃絶の客観的条件は、大きく改善されました。事実、南アフリカは核武装を放棄しましたし、NPT(核拡散防止条約)の延長、CTBT(包括的核実験禁止条約)の採択など、核軍縮への歩みは、それなりに前進しました。
 しかし、保有国が「核抑止力」に固執し、核廃絶への誠意を示さないうちに、とうとうインド、パキスタン両国が地下核実験に踏み切ってしまいました。私は訴えたいのです。今こそ、核兵器の本質に迫った「原水爆禁止宣言」を真剣に問い直すべきであると。

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