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日蓮大聖人・池田大作

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1 科学の使命――悲劇を起こさぬために…  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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1  物理学者の半分が軍事研究に従事していた
 池田 これは皮肉な歴史ですが、「科学技術は戦争によって発展した」とは、よく言われるところです。今日、平和利用されている科学技術には、戦争を契機に開発され、またその副産物として誕生したものが、数多くあります。
 一方、平和目的で開発された技術にも、戦争に利用され、精度の向上が図られてきたものがあります。
 クリーガー はじめは戦争に勝つことを目的にした軍事上の研究が、結果的には、平和を目的とする科学の応用技術を発展させてきたのは、事実です。しかし、それはもちろん、戦争を容認する論拠とはなりません。
 科学技術の発展が軍事上の研究の結果であるのは、主に潤沢な資金がこの分野に注がれ、最優秀の科学者が雇用されてきたからです。平和な時代においてさえ、数多くの科学者や技術者の研究が、軍事体制によって支えられています。
 私の認識では、たとえば冷戦時代の最高潮時には、全物理学者の五〇パーセント以上が、軍事上の研究に従事していました。これは驚くべき数字です。ということは、軍事体制が、それ自体のプロジェクトを優先するために、科学者と技術者の大方を取り込んでいたということです。
 ですから、人類にとって恩恵となるものの一部は、戦争に動機づけられた研究から生みだされたものであったとしても、じつのところ、これらの恩恵は、社会における科学技術力を、主に破壊目的に利用し続けるための、いわば"隠れ蓑"なのです。これは、社会資源――科学・技術・財務的資源――のきわめて下手な割り当て方であります。
 池田 その典型的な例こそ"核"の技術でしょう。たとえば原子力発電は、核兵器が先に生まれ、その応用として誕生しました。一般には"核の平和利用"と呼んでいますが、原子力発電によって出るプルトニウムは核兵器の材料となるものです。ここで重要なのは、"隠れ蓑"によって隠されているものを、なくせるかどうかです。つまり、戦争という目的自体が無意味となれば、戦争の技術も、平和のためのより価値的な方向へと転用されていくでしょう。
 そのためには「戦争だけは絶対に起こさない」という合意を人類的規模で形成し、人間としての最低限のモラルに高めていくことが大切です。それには国家間における制度的な側面からの保障と、人間一人一人の内面的な変革が必要ではないでしょうか。
 これまで一貫して国連改革への提言を発表し、世界に文化・平和・教育を基調とする民衆運動を広げてきたのも、ひとえにそうした思いからでした。
 「戦争の放棄」が国際世論として定着していけば、科学技術の平和利用は"隠れ蓑"ではなく、本来の目的を果たすことになるでしょう。
 クリーガー 同感です。健全な社会であるならば、科学者や技術者は、建設的な目的のために雇用されるでしょう。そうした社会の中では、科学技術から生みだされる人類への恩恵は、はるかに大きなものとなるでしょう。
2  「二〇〇一年宇宙の旅」が暗示すること
 池田 ところで、「二〇〇一年宇宙の旅」という映画がありましたが、その冒頭にこんなシーンがあります。太古、一匹の猿人がふと棒を手にする。そして、それを振るって地上にあった白骨を砕く。次にその棒を空高く放り上げると、棒はくるくると回り、次の瞬間、宇宙船に変貌し、場面は二〇〇一年の宇宙に変わる。――道具の起源から未来の宇宙技術まで、何百万年にわたる人類の進歩を見事に表現した場面でした。
 猿人が手にした棒は明らかに武器でした。当然、獲物を取る時にも使われたでしょうが、仲間同士の争いにも使われたでしょう。一本の棒が宇宙船にまで進歩するのに、どれだけの人命が失われたことか。棒は剣からピストルに、ピストルは機関銃、大砲となり、ついには核兵器にもなりました。
 クリーガー 歴史上、人類のもっとも目覚ましい特性の一つは、一定の目的を達成するための道具を開発し利用する能力でした。原始時代の棍棒と、現代の核兵器とでは、殺す能力の能率に比較にならないほど大きな違いがあります。われわれ人類の目的が、たがいに殺戮しあう技術を向上させることであるならば、現代の人類は、未曾有の成功を収めたわけです。
 このいわゆる成功は、もちろん、科学的発見と技術的達成に補助されてきました。その結果、今では全人類が消滅する危険の極限点にいたりました。今こそ、われわれの目的自体を再検討し、科学技術を、人類の存続そのものを脅かすために使用することをやめるべき時です。
 池田 本来、科学技術は、人類の幸福に奉仕するはずのものでした。それが、いつしか、大量殺戮の手段として利用され、人類の存在そのものを脅かすことになってしまった。われわれは今、その転倒を正さねばなりません。
 「ヒト」は他の動物にはない理性をもっています。しかしそれを、みずからの生存を危うくする方向で発揮するならば、集団で海に飛び込み死んでしまう「レミング」を笑うことはできません。ホモ・サピエンス(知恵ある人)の真価は、人類としての危機をいかに回避するかにかかっているのです。
 クリーガー 科学技術が戦争の性格を大きく変えたことの一つに、距離感覚があります。科学技術が発達するにつれ、だんだんと、より遠くの地点から殺すことが可能になりました。このことの副作用として、勇気はなくても戦争行為は可能になっています。
 実際、視覚外の遠くの標的にミサイルを発射するボタンを押す場合、どんな勇気が必要でしょうか。戦争における臆病な行為の最たるものが、核兵器の使用です。あるいは「核兵器を使用するぞ」と脅すことも、ことは同じです。しかし、この臆病な行為は、主に軍隊に関してのみならず、政府の行為でもあり得ます。この種の臆病は社会の全体に染みわたり、人心を汚染してしまうものです。
 この点、肉弾戦は、少なくとも殺人を実感させますし、距離とハイテクの致死手段による交戦とは違って、殺人を手を汚さずにすむように抽象化することはありません。
3  科学技術そのものに罪はない
 池田 科学技術の多くが、戦争によって発達してきた側面も否定できませんが、だからといって、私は「反科学論」を唱えるつもりはありません。科学技術が社会を発展させ、私たちの生活レベルを向上させてきたことは明らかです。この功罪相半ばする科学技術の"罪"をいかに削ぎ落とし、"功"の側面を増大させていくか。いいかえれば、科学技術が、いかに人類の幸福と、繁栄に寄与できるかを、文明的視野に立って、模索することが必要です。
 科学とは宇宙・自然の法則を探る営みであり、技術はその成果を利用する方法です。ですから、科学といい技術といい、それを使う人間の目的によって、善にも悪にも活用されるのです。
 クリーガー 確かにそうですね。人間がどのような意図を持つかは、重要な役割を果たします。しかし、人間が創り出したものが、人間のコントロールできる範囲を超えてしまう場合もあります。
 池田 釈尊は、仏典の中で、同じ一本の「メス」でも、それを提婆達多という悪人が使うか、耆婆という名医が使うかによって、人間を不幸にするか、幸福にするかが分かれてしまう、と説いています。
 以前、所長ご夫妻にも、お越しいただきましたが(一九九八年二月)、私ども創価学会の沖縄研修道場は、かつて米軍によって建設された「メースB」のミサイル基地でした。
 現在、ミサイルの発射台は改装され、建物全体が恒久平和への祈りをこめた「世界平和の碑」として、保存されています。また内部には、沖縄創価学会の青年部の手による平和展示なども設けられ、戦争の悲劇と平和の尊さを伝えています。
 これまで、地域の子どもたちをはじめ、県外からも多くの方々が訪れてくださり、生きた平和教育の場として、好評を得ております。道場の敷地内には、戸田記念国際平和研究所の施設も、設置される予定です。戦争のための基地が、今では、世界不戦の精神を訴えゆく、いわば"平和の発信基地"に生まれ変わりました。技術であれ、物であれ、結局、使用する目的を決めるのは、人間です。人間の"一念"によって、すべてを"善"にも"悪"にも変えることができるのです。
 クリーガー 先ほど池田会長は、「科学は、自然と宇宙を認識する方途である」と述べられましたが、私も同感です。科学によって得られた認識を、人類の利益や、人間の幸福の建設的な目的に用いるか、それとも、破壊的な目的に用いるか。人間には選択の自由があります。
 イスラムの神話にいう「たとえ壜の中に閉じ込められた悪魔が出てきても」ということは、危険がいよいよ迫っても、という意味ですが、人間には選択の自由があります。かつてはミサイル基地であった場所を、会長は平和の場所に変えられ、軍事目的を平和目的に転換する方向へ、立派なモデルを示されました。沖縄研修道場を訪問したさいに、まず深く感じたのは、このことです。また、私どもの平和財団から、"平和の種"として贈らせていただいたヒマワリの種が育っているのを見て、うれしく思いました。
 池田 あのヒマワリは、沖縄の同志の方々が、真心をこめて、大切に育ててくださったものです。今では、毎年、見事な大輪の花を咲かせるようになりました。
 クリーガー 平和の行為の一つ一つが、それ自体、平和の種子であり、一粒一粒の種子が育つところに他の人々を触発する可能性があると、私は信じています。
 かつてはミサイル基地であったところが沖縄の平和の場所に変えられたのは、その一粒の種子です。
 冷戦が終わり、ウクライナ共和国と他の旧ソ連領のミサイル基地が解体されたさい、それと同種の種が蒔かれました。
 私たちの目標は、世界中の全ミサイル基地が平和的利用に変えられるまで、これらの種を蒔き続けることです。これは人間の意志の問題であり、かつまた、今は政治的意志に変容している人間的決断の問題です。核兵器のない世界を実現するグローバルな努力に、今なお欠けている、もっとも重要な要素は、核保有国側のこの決断ではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。いかなる理由があろうと、科学技術を"国家のエゴ"に従属させてはなりません。科学技術を、人類の福祉のために、どう役立てていくか――そうした課題を、世界の科学者が、国家を代表して話しあう「地球市民世界科学者会議」とも呼ぶべき会議が、さらに必要でしょう。
 クリーガー 科学者たちは世界市民としての一つの重要な資質の既得者です。彼らは科学的方法論という共通語を持っておりますし、言語の壁を超えて科学的発想を他の国々の科学者たちに知らせる場合、しばしば数学的言語を用います。今、科学者が認識すべきことは、全人類が共同の過去をもち、科学が大きな形で、人類を共同の未来、共同の運命において一体化したことです。
 そして今の科学者がまさになすべきことは、アインシュタイン博士やポーリング博士のような偉大な科学者が過去になしたように、共同の目的で結束し、人類の未来のためにふたたび警鐘を打ち鳴らす手助けをすることです。
 会長が提案されている世界会議に近いものとしては、「グローバルな責任を果たす科学者・技術者の国際ネットワーク」(INES)があります。二〇〇〇年六月に、「二十一世紀における科学技術の挑戦」をテーマに、会議を開催しました。
 池田 クリーガー所長は、そこで「核廃絶」の分科会を主宰されたそうですね。この会議でも論議されたと思いますが、今後、科学技術を平和に役立てていくには、どのようなアプローチが有効であると思われますか。また、科学者、技術、そして平和の関係については、どうお考えでしょうか。

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