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日蓮大聖人・池田大作

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2 心の詩――自然・人間・宇宙の営み  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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1  池田 詩は魂の発露であり、信念の美的表現であると、私は考えています。詩は自身の精神を高みへと引き上げ、一切の束縛から解放します。
 優れた詩人の作品は、読む者の魂を高揚させます。宇宙のリズムや巧まざる自然の営みへの驚きであれ、あるいは圧政への抵抗の叫びであれ、謳い上げられた詩人の心が、読者の心にふれて、共振を起こさせるからです。
 私の大好きな詩人に、アメリカのウォルト・ホイットマンがいます。彼はそれまでの美辞麗句でつづられた詩の形式を大きく超え出て、人間性のありのままの叫びを『草の葉』として世に問いました。私は若き日から、この『草の葉』に親しみ、何度もひもときました。そこには新世界アメリカへの賛歌があり、敬虔な信仰心があり、偽善への告発があり、額に汗して働く民衆への共感があります。"人間を愛する心"そのものが躍動しているのです。私はホイットマンの世界に引き込まれ、むさぼるように読みました。そして私自身も詩を作るようになりました。戦後の荒廃した社会の中で、
 折々の感慨を託しては、詩につづったものです。
 クリーガー 池田会長は対話を進めるために、非常に豊かな分野を掘り起こしてくださいました。良き詩歌は人間の精神を感動させます。また良き詩歌は、人間の本分を思い起こさせ、人間の生命の不思議さに対する感覚をふたたび目覚めさせます。人間の日々の生活は、ほとんどの活動が、自分が所有しているもの、所有したいものにとらわれています。それらは非常に物質的なものです。
 しかし「所有すること」が人間の本分ではありません。ハロルド・ラスウェルは政治学の定義として、「誰が、何を、いつ、いかに入手するかを研究する学問」だと述べました。
 社会科学であれ、自然科学であれ、いかなる学問も、われわれの本分は何か、われわれはなぜ存在するかについては、じつはたいして示すことができません。
 また勇気と品格があり、道義的に正しく、愛情のある存在となることについても、それは同じです。これらの問いは、人間の精神に向かうものであり、良き詩歌の真髄にあるものです。
2  詩心の復権こそ指導者に必要
 池田 現代世界の指導者にもっとも必要なものは"詩心"の復権だと思います。
 エゴと欲望の無制限な肥大化がもたらした、人間精神の「空洞化」と「荒廃」に歯止めをかけるには、詩心の復権が不可欠です。かつてワシントンでベトナム反戦デモが行われた時のことです。銃剣を突きつけてデモ行進を阻止しようとする兵士に、デモの先頭にいた一人の女性が「一輪の花」を差し出すという一幕がありました。この一輪の花は兵士の中の「善なる心」への信頼の象徴であったと思います。これこそ"詩心"の一つの表れではないでしょうか。
 クリーガー すばらしい例ですね。私も、勇気ある若い女性が、兵士の銃身に一輪の花を差し出す写真を覚えています。彼女の行為は、単純で象徴的なものでした。しかし、それはまた、詩的で深い問いを投げかけるものでした。花と銃とでは、どちらがより力強いか。女性と、武装した兵士とでは、どちらのほうが、より勇気のある人間か。この二人の若者――兵士と反戦者、国家のしもべと市民――を結びつけるものは何か、そして引きさくものは何か。われわれ人間の本分と、人間の生命の目的について深く考えさせるものでした。
 池田 まさにそのとおりです。詩心はさまざまな立場や地位にある人間に対して、一個の赤裸々な人間に立ち戻ることを促します。
 詩心とは決して感傷や夢想ではありません。世界と人間に対する包容であり、肯定です。いかに困難な状況に対しても、決して屈することがない、楽観主義という意志の力なのです。
 私は人間の善性を信じます。いかに「悪」の力が大きくても、それを上回る「善」の力を結集できないはずはないと確信しています。欲望に振り回されやすい己の心を統御し、理想を見つめつつ、現実を力強く切り開いていく精神の力こそ、詩心にほかなりません。
 そして、人間を機械化する国家のメカニズム、権力の論理を、善なる人間性によって包囲していく作業なくして、平和はありえません。いいかえれば、詩心を欠いた平和運動は、運動する側にも機械化、権力の論理が忍び寄ってくるということです。
 そのことを鋭く看破したのが、マハトマ・ガンジーでした。
 ガンジーがなぜ非暴力を掲げたか――それは暴力に対して暴力をもって立ち向かうことの空しさを知ったからでした。彼の非暴力運動に、私は、大いなる詩心を見るものです。
3  世界が求める詩心に通じる政治家たち
 クリーガー 人間はたんなる「数字」ではありません。われわれは、集計され操作され処理されるもののなかで究明される、たんなる「統計」ではありません。
 しかし、現在の政治のプロセスが人間をあつかう手法は、こうしたものであることを人々は感じています。考えられるすべての問題に関して世論調査は行われますが、そのあとに指導者が、世論の集計結果に見合うようにその公的声明を緩やかに調整して発表します。
 真の指導性には、人間精神との関係性とビジョンが不可欠です。ガンジーにはそれがありました。マーチン・ルーサー・キングにもありました。ヴァーツラフ・ハベルにも、ネルソン・マンデラにもありました。
 これらの人たちは、「政治の詩人」として、同時代の人々に卓越しています。
 これにつけて私が、長年のあいだ思ってきたことは、政治の指導者である詩人たち、詩人である政治の指導者たちを、世界は必要としているということです。
 事実、これが伝統となっているところが、世界の一部にはあります。たとえばラテン・アメリカは、とくにそうです。パブロ・ネルーダはチリの駐仏大使などを務めていました。
 今では、政治的公職をもたない人たちが多く世界の舞台に登場し、政治的であるとともに深い詩心のある行動を示しています。
 池田 残念なことに、日本の政治家や政府高官で、かつ豊かな詩心を有しているという人は、少ないと言わざるを得ません。また民間人も、ビジネス精神は旺盛でも、詩心を持って行動している人は、まれではないでしょうか。所長は、詩心豊かな平和の闘士であられる。これまでに、何編ものすばらしい詩をいただき、感激いたしました。
 日本の高村光太郎という詩人は「路傍の瓦礫の中から黄金をひろい出すというよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であった事を見破る者は詩人である」(草野心平編『高村光太郎』、『日本詩人全集』9所収、新潮社)と言っています。
 まさに、瓦礫のように見えても中身は黄金であることを見抜く目が、詩心なのです。
 それはそれとして、所長が、兵士に花を差し出した女性に強い共感を覚えたことをうかがって、わが意を得たりの感を深くしました。
 クリーガー 詩的精神にかかわる行為として、モントゴメリー市のバスの中で白人男性に席を譲らなかったローザ・パークス女史の行為も、挙げたいと思います。自身の信念を貫く決意によって、女史は無言のうちに、「わたしも人間であり、他のすべての人間とともに等しく尊厳に値する」ことを明らかにしました。
 また、マーチン・ルーサー・キング博士が、「私には夢がある」と語ったとき、博士は詩の言葉で、人間の精神に呼びかけていました。私が信じるに、詩はじつに重要ですが、いかなる詩も、詩人自身ほどには重要ではないと思います。私たちが求めるものは、"声"なのです。この声は時には言葉として表れ、時には行動として表れます。
 詩人の声はつねに、われわれは何者であるか、すなわち人間の本分は何であるかの神秘を探究し、人間の尊厳を守る強き声であり続けるでしょう。このような声、このような詩歌には、つねに希望の調べがあります。
 池田 ローザ・パークス女史とは、何度も語りあいました。女史は身近なところから行動を起こそう、と語っておられた。まことに勇気ある人権の母です。座して瞑想にふけるところからは、本物の詩は生まれない。自身との闘いと行動によって深められた精神のみが、人の心を打つ詩を紡ぎだすことができるのです。詩はたんなる言葉の組み合わせではなく、宇宙・生命・人間に対して共感する精神の表出です。その意味では言葉による"詩"を残さなかった人でも、その行動自体が大いなる詩である場合もあるのです。
 先ほども申し上げましたが、私も若い日より、詩を作ってきました。現在も折にふれ、短編や長編の詩を作り続けています。そして、さまざまな人に贈らせていただく場合もあります。
 かつて日本の詩人・上田敏は『戦争と文芸』の中で"詩は三つのW、つまりWar(戦争)、Woman(女性)、Wine(酒)が動機となり、材料になっている"(『定本上田敏全集』5所収、教育出版センター、参照)と述べました。
 それになぞらえて、私の詩には「三つのP」、すなわちPeace(平和)、People(民衆)、Philosophy(哲学)を感じると、光栄にも言ってくれた人がいました。
 ともあれ、所長は「詩はじつに重要ですが、いかなる詩も、詩人自身ほどには重要ではない」と語られましたが、それは、私の考えと軌を一にするものです。
 所長の詩についての見解、また好きな詩人とその理由などについてお聞かせください。

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