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日蓮大聖人・池田大作

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4 日本とアメリカの使命  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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1  冷戦が終わっても続く核兵器の脅威
 池田 広島、長崎の「原爆の日」、終戦記念日が重なる八月は、日本人にとって「平和」を見つめ直す特別な月です。
 クリーガー 残念ながら、ほとんどのアメリカ国民は、一九四五年(昭和二十年)八月の出来事について、日本国民ほど深く考えることはありません。ただし私自身は、七月中旬から八月中旬までの時期を、「ヒロシマの季節」と考えています。それは、すべての生命に対する核の脅威を終わらせるための人間としての責任についてあらためて考え、深く思いをめぐらす時だからです。
 池田 八月を迎えると、あらためて思うことは、「核廃絶」という人類の悲願に対して、アメリカと日本は、特別の責任を負う立場にあるということです。いうまでもなくアメリカは、世界で初めて核兵器を生みだし、使用した国です。現在、唯一の超大国であり、最先端の核兵器技術を持っています。
 核廃絶の鍵を握るのは、なんといってもアメリカでしょう。アメリカが決断すれば、他の保有国も、核を持ち続けることはむずかしくなるのではないでしょうか。
 クリーガー 核廃絶について、アメリカと日本にとくに責任があるということは、私も同感です。しかし残念なことに、どちらの国も、この責任をとってはおりません。
 池田 冷戦終結の興奮につつまれた一九八九年(平成元年)から、すでに十年以上がたってしまいました。
 にもかかわらず、核兵器は残っている。核廃絶の絶好の機会を人類は逃してしまったのかもしれません。歴史は、アメリカが「人類への責任」を果たす「時」を待っていると思うのです。
 しかし現実は、アメリカ国民の関心は核兵器問題に、あまり目が向けられてこなかったように思えます。冷戦時代は、「米ソ核戦争の恐怖」が核廃絶運動のエンジンの役割を果たしてくれた。しかし今は、「恐怖」に代わる運動のエンジンが、見つからない状況なのでしょう。あるアメリカでの意識調査でも、核廃絶の国際条約に九割近くの人が賛成しながら、そのためにみずから積極的に行動すると答えた人は、ほとんどいなかったと言います。日本でも、同じような傾向を感じますが。
 クリーガー アメリカの国民が、核問題にさほど注目していないとのご指摘は、まったくそのとおりです。
 事実、大多数のアメリカ人は、「核の脅威は冷戦が終わるとともに終わった」と信じています。彼らが間違っているのは明らかです。核兵器の脅威は現に続いていますし、
 ある意味では旧ソ連の解体とともに増していると言えます。よく問題になる旧ソ連の核兵器や、核兵器として使用可能な物質のあやしげな管理状態は、私たちすべてに対する警鐘と受けとめるべきです。
2  声をあげなければ「罪に値する」
 池田 核の管理の問題に加え、核の拡散の問題が起こっています。インド、パキスタンにおいて核実験が行われたことで、世界は、核兵器の脅威が続いている現実に目を覚まされましたね。
 実際、両国は、冷戦終結後の一九九〇年、核戦争寸前におちいったと言われます。「キューバ危機」以来の緊張であったという説が発表されました。(「ニューヨーカー」誌のセイモア・ハーシュ論文)
 クリーガー 旧ソ連にある核兵器、および核兵器の基準を満たす物質の管理をとってみても、テロリストや犯罪者、無責任な国家の指導者たちの手に渡るのを防止するのに十分かどうか、明らかではありません。
 この点で、世界は岐路に立たされています。核兵器を廃絶するのか、さもなくば核兵器が多くの国々、そしておそらくはテロリストにまで広がるのか、その分かれ目にあると、私は思っています。
 池田 「核抑止力」をいまだに唱える人々は、このまま一部の国が核を保有したままのNPT(核拡散防止条約)体制を続けるリスクと、非核の国際システムを敷いた時のリスクを、真剣に比較・検討すべきでしょう。保有国が核廃絶への努力を怠るならば、NPT体制が早晩、行き詰まることは目に見えています。
 クリーガー こうした状況の重大さにアメリカ国民をいかにして目覚めさせるか、
 これこそが、アメリカにいる私と同志にとっての、目下のむずかしい課題なのです。私自身、『われわれは皆、罪に値する』と題した記事を書きました。その中で主張したのは、「一国がその安全を核兵器に依存するのは、実際には、何億もの罪なき人々を殺す脅威に、その国の安全を依存するのと同じである」ということです。
 核兵器に安全を依存することは、道義の面から擁護できません。事実、私たちが置かれた状況は、ナチス時代のドイツ国民以上に、擁護できないはずです。あの時代のドイツ国民は、政府に少しでも疑いや批判を向ければ、当人だけでなく、家族全員が拷問や死にさらされかねなかった。今のアメリカや、西側の核兵器保有国には、そのような事情はありません。
 私たちには、政府の方針に疑問を投げかける自由があります。にもかかわらず、核の問題については抗議が少ない。ですから、もし核兵器が将来使用されたなら、私たちは皆、罪に値するはずです。自分たちの声を聞き入れさせる機会があるのに、大方の人々は、発言する機会をのがしているのですから。
 これは、今日の悲しむべき社会道徳についての論評ですが、社会道徳は当然のことながら、個人個人の道徳の反映でもあります。
3  「核兵器を持とうとする意思」の廃絶へ
 池田 その意味でも、所長がなさっておられるような、啓発の努力が重要です。一方で、核廃絶を呼びかける国家群「新アジェンダ連合」、またそれを支援するNGO組織「中堅国家構想」など、心強い動きもあります。所長もこれに加わっておられますね。
 所長もよくご存じのとおり、一九九六年、アメリカのリー・バトラー元戦略司令部最高司令官が、各国の軍指導者とともに核廃絶を訴えました。みずからの体験を通して、偶発的事故の危険性や軍拡競争の非効率性などを明らかにしました。
 また、マクナマラ元米国防長官、ホーナー元米将軍(湾岸戦争当時の多国籍空軍司令官)など、核戦略の現場で最高責任者を務めてきた人々が、核廃絶の声を上げ始めています。立場が立場の人であっただけに、非常に重みのある発言です。こうした、「核抑止力信仰」を論破する「良心の声」は、世界の核廃絶運動の大きな力になります。
 クリーガー バトラー将軍は、軍人としてのほとんどの期間、核兵器体制の一員でした。軍隊で出世し、米国戦略司令部の司令官になり、米国の戦略核兵器のすべてを担当していました。攻撃目標の選択にも責任がありました。実際、将軍の命令によって、数多くの攻撃目標が取り除かれもしました。九四年に退役したあと、氏は冷戦が終わって以来、進むべき核軍縮が、なぜもっと前進しないのか、不審に思い始めたわけです。そしてバトラー氏は、核兵器廃絶の心強い提唱者になりました。氏が、核兵器削減に関するキャンベラ委員会の一員であったことがあります。委員会のメンバーとともに、バトラー氏が達した結論はこうです。
 「核兵器が永久に保持され、かつ、偶発的であれ、決定によってであれ、使用されることはないとの主張は、信憑性がない。唯一の完壁な防衛は、核兵器の廃絶と『核兵器はもう決して製造されない』という保証である」
 池田 核兵器廃絶への具体的プロセスを示したという点で、キャンベラ委員会の報告は画期的でした。核廃絶の立場の人のなかでも、その手法をめぐっては、核兵器の解体後も核兵器製造技術の温存、つまり「潜在的抑止力」を認めるか等をめぐって、さまざまな意見の違いがあるようです。しかし私は、今、所長が言われたように、核廃絶は「核兵器を持とうとする意思」そのものの廃絶をゴールにすべきだと考えています。生命の尊厳に照らして、その「意思」自体、倫理に反するものだからです。
 もちろん、めざすゴールに違いはあれ、保有国による「核先制不使用宣言」、「核物質の核弾頭からの除去」というような、核廃絶の方向、核戦争のリスクを減らす方向に、少しずつでも歩を進めるべきなのはいうまでもありません。
 クリーガー 私は一九九六年に、あるフォーラムで初めてバトラー氏にお会いしました。
 氏と私は、きわめて異なった人生の道を歩んできた二人でしたが、おもしろいことに、最後は、核兵器に反対するという同じ立場に達しました。氏の到達された次の結論に、私は心から賛同しています。
 「われわれは、生命の存在の奇跡を『聖なるもの』としながら、同時に、生命の存在を消滅する能力を『聖なるもの』とするわけにはいかない。われわれは、『核の悪夢から解かれる鍵』を、行き詰まった国家主権の人質にしておくわけにはいかない。われわれは、核の束縛を打破し、その危険を削減するための方策を隠しておくわけにはいかない。われわれは、座して"核の聖職者"の色あせた説教に黙従するわけにはいかない。今は、個人の良心、理性の声、人類の正しい利益が優先されるべきだと、
 ふたたび主張する時である」と。
 池田 胸を打たれます。核の本質を突いた「生命尊厳」の奥底からの叫びです。

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