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21世紀におけるブルガリアと日本  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  池田 一九八九年の東欧の民主革命から、今年(一九九九年)で十年の歳月が経過しました。現在の東欧およびブルガリアの状況について、博士はどのようにお考えですか。
 ジュロヴァ 私たちブルガリア人はとても意志が強いのですが、一方ではたいへんに適応性に富んでいます。歴史のなかで、ブルガリア人は、しばしば多くの改革を行ってきました。一九八九年以降の出来事は、ブルガリア人のそのような能力をもう一度はっきりと示したと思います。
 しかし、民主化当初の激動と興奮が通りすぎた現在、一種の昏睡状態におちいっていると見られる面もあります。一種の無関心の状態ですが、その原因について、私は個人として思うところがあります。かつて社会主義国だったほかの国でも同じだと思いますが、わが国でも、変革を生みだそうとする意思が明確に存在していました。一九八六年から八九年までに起こったさまざまな出来事を的確に表現するならば、それは、革命ではなく変革であったと言えると思います。
 ところが、その変革が、どちらかと言うと、ブルガリア人の大半が予期していなかった方向に向かったのです。たとえば私たちは、既存の社会的な恩恵がすべて奪われてしまうなどとは、思ってもみませんでした。無償の教育や保健サービス、数年先の人生設計を構築する可能性、終身的かつ安定した職場などです。
 実際に、力強い広範な中流階級の一群は、数年でおとろえてしまいました。この一群は、生活の質が向上することを期待していましたが、新たな現実社会に引き続きうまく適応するどころか、逆にみずからの立場を失い、崩壊の生き証人となってしまったのです。
 私たちは、変革がこのような方向に進むとは思ってもみませんでしたし、移行期の困難な状態に対して、西欧諸国がきっと手を差しのべてくれるだろうと信じていました。しかし今や、私たちの望みのほとんどは消え去ってしまったと言ってよいでしょう。
 パリをはじめとして、諸地域でおきた一九六八年の出来事に参加した人々や、それを切り抜けてきた人々も、同じような幻滅を味わっていたのかもしれません。当時、彼らが描いていたような世界や未来を、今、彼らが見いだしているとは思えないのです。もちろん、そのようなことは、それ以外にもあったことです。
 私たちが建設しようとしている民主主義社会は、混沌と貧困のなかで消え失せてしまうほど、いまだに脆弱でこわれやすいのです。一九八六年以降のロシア、そして八九年以降の東欧諸国についても、同じようなことが言えるでしょう。
2  池田 民主革命以降の歩みが、多くの困難を伴うものであったことはよく存じています。
 しかし、長期的な視点からすれば、さまざまな紆余曲折はあるにしても、東欧およびロシアにおける民主主義社会の建設という目標は達成されると確信しております。
 それは「民主化」が、今日ではだれびとも押し止めることができない世界の潮流であるからです。今や、一にぎりの人たちが力や利害によって民衆の意志を抑圧し続けることは困難になっています。自分たちの未来は自分たちの意志で決めるという主体性の意識が、世界的に明確に自覚されてきたからです。
 この十年ほどを見ても、アジアではフィリピン、カンボジア、インドネシア等で民主化のはっきりとした歩みが見られました。アフリカでも、南アフリカやナイジェリア等にそれをうかがうことができます。
 ジュロヴァ ロシアでも東欧でも、民主化の当初は、民族主義は間もなく消え失せるであろうと信じられていたのです。しかし、そうではありませんでした。今日、老人にも若者にも同じように、「民族的な復讐」という醜悪な行為が見られます。
 私たちは、二面性を持った周期の終末に位置しているように思われます。二面性の一つは、経済の国際的統合および政治的協調、そしてもう一つは、民族的な分裂です。
 第一の経済の国際的統合は、定義しやすいものです。この世界ではお金がすべてであり、伝統的な力は無力です。現在の混沌とした状況を決定づけているのは、“精神の貧血症”とでも言えるものなのです。
3  池田 確かに市場経済のグローバル化の基盤には、物質偏重の“拝金主義”があります。現代世界は、経済的競争が支配しているような状況になっていますが、本来、人間の世界は「経済」の視点だけで判断されるべきものではありません。人間が安定した人生を送るためには、むしろ豊かな精神文化の存在こそが不可欠です。
 物質的には、安心して日々の生活を送れることが必須条件であり、アメリカや日本等の先進諸国で見られるような「過剰消費」、いわゆる“浪費”におちいるべきではありません。仏教では、人間の生き方を“少欲知足”として、物質的には基本的ニーズの充足に焦点を当て、その上での精神的充実の人生を説いております。
 人類の歴史は、大局的には、経済的価値を第一義とする時代から、精神文化の価値を重視する時代に推移していくと私は考えています。物質的欲望にのみ支配されている段階を、こえていかなければならないのです。
 しかし、それにしても、世界における、あるいは各地域における富の偏重の問題は、もっとも深刻な課題の一つです。
 貧困に苦しんでいる国々では、最低限度の食糧や衛生的な水を確保するのも困難な状況があります。子どもたちは、基本的な教育の機会さえあたえられていません。その一方で、先進諸国においては、栄養過多をおそれてダイエットに夢中になっている人々がいます。“経済格差”は、ますます拡大していく様相にあります。これは、人類の深刻な分裂、対立の要因となりかねません。
 「貧困の克服」に向けて、貧困に苦しむ国々の“自立的発展”のために、可能な手段をつくして物質的・精神的援助が行われるべきです。先進諸国の現在の豊かさも、もとはと言えば発展途上国の存在によって支えられているという事実を認識するならば、貧しい国々を支援するのは、人間として当然の倫理と言えましょう。今や世界は一つの「共同体」であり、他者を犠牲にしたままで、自分たちだけが繁栄し続けることはできません。人類は、「自他ともの繁栄と幸福」への、さまざまな方途を実行すべき段階にいたっていると思われます。
 ジュロヴァ 先生のおっしゃることは、たいへんにすばらしいことです。産業、技術面で未開発の国々に対して支援を表明することは、倫理的な義務と言えるでしょう。今、先生は人間の幸福について話されましたので、それについて、私の意見を述べたいと思います。
 まず、ご指摘にならなかったいくつかの事実に注目していただきたいと思います。貧困を評価するさいに、広く用いられている国際的基準に照らしてみると、たとえばわが国は、十年前には貧困国とは見なされていませんでした。
 少なくとも、あるていどまでは、今日でもそれは当てはまります。家やアパート、車などを所有していると貧困とは見なされず、中流階級の人々の多くは、こうした財産を所有しているからです。しかし反面、混乱もあります。一九八九年の民主化に伴い、以前の私有地の返還が開始されましたが、十分に組織的な市場が存在せず、自身を守るすべがないのが実情です。
 変革が始まったころには、わが国を再建するためのプロジェクトやモデルの開発において、こうした具体的な現実が考慮されることはありませんでした。
 私たちはだれで、どこから来たのか、そして私たちの財産、幸福、精神面における発展とは何か、といった点について理解しようとしないモデルや計画を、実行しようとする傾向に対して、私たちは強く反対いたします。

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