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文学について  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  池田 貴国の文学作品は、残念ながらわが国ではこれまでよく知られることはなかったのですが、それでもこの二十年ほどの間、だんだんと翻訳も進み、徐々にではありますが、広く紹介されるにいたっております。
 最近、私は貴国の短編集に目を通す機会がありました。それは、十三人の作家の作品を一冊にまとめたものです。そこには、それぞれの作家の簡単な略歴が付されていましたが、一つ注目すべき事実を発見しました。十三人のうち八人までが、児童文学に関係していたのです。これは、驚くべき比率である、と私には思われました。また、この十三人の作家の範囲にかぎらず、現代ブルガリアでもっとも人気があると考えられるエミリャン・スタニェフも、動物などをテーマにした児童文学作品が多い、と聞いています。
 ジュロヴァ ブルガリアの児童文学の起源をたどると、私たちは民話に行き着きます。一八六一年に、ミラディノフ兄弟のコレクション『ブルガリア民謡』の中で、子どものための民話が初めて出版されました。
 また、同年にロシアで出版されたリュベン・カラヴェロフのコレクション、『ブルガリアの日常生活の記念』の中にも、民話が見られます。
 民話は、児童文学の「母」であり、現代ブルガリアの散文学の「母」です。
 池田 確かに、民話は、現存する人物や事象を人間の夢や願望と織り交ぜて語るのが特徴ですから、幼いころから馴染みやすいですね。子どもは、民話を通して正邪の区別を知り、自然界へのあこがれをいだき、さらに、目には見えない抽象的な世界のことも学び、成長していくものです。
 ジュロヴァ はい。しかし、ブルガリア文学が児童文学と関係が深いのは、それだけが理由ではありません。
 ブルガリアでは、児童文学は大人の文学と切り離せません。両者は同じ原理に導かれているからです。児童文学は、道徳的、倫理的、社会的、国民的諸問題への関心から生みだされました。それは今日でも変わりません。低次元の読み物でもなく、エリート階級の子どもたちのための文学でもありません。すべての子どものための文学なのです。
 児童文学が社会的要請のもとに発展したのは、歴史を見ても明らかです。子どものために書かれたブルガリア初の教本は、近代ブルガリア文学における最初の世俗的な学術書でもあった、ペタル・ベロン著の『魚の入門書』でした。
 私は、日本の児童文学についてはあまり知りませんが、ブルガリアでは、つねに児童文学への関心が存在してきたのです。子どもたちの誕生日などの機会に書物を贈る習慣は、それを示すものです。ブルガリアの子どもたちにとって書物は、つねに望まれ、期待され、喜ばれる贈り物なのです。
2  池田 私は病弱だったこともあり、本は少年時代からの大切な宝物でした。古本屋に行っては、伝記や小説など、さまざまな本を探し求めては読んだものです。その中で、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読んだ時の感動は、今でも忘れられません。美しい人間愛に強く心を打たれ、「いつか自分も、ユゴーのような、人を感動の坩堝に巻きこむ長編小説を書きたい」と思ったほどです。戦争中は、防空壕に本を持ちこんだこともありました。
 私は、最近の日本の青少年が「本離れ」をしている現状を憂えていますが、何よりも、「読書の喜び」を知らないことが問題だと思います。一冊の良書は、一人の偉大な教師と出あうようなものです。青年時代、なかんずく少年時代に良書と出あうことの重みは計り知れません。
 ジュロヴァ ヴァジル・ドゥルメフ著の『不幸な家族』は、もともとは大人のために書かれたものですが、すぐにブルガリアの子どもたちに気に入られました。この書の中で、著者は次のように記しています。「私がこの本を書いたのは、虚栄心からではなく、私たちの運動に少しでも貢献したい、という強烈な願いからなのだ」と。このことはまた、自分たちの才能を子どものためにささげた他の作家たちにも当てはまります。
 イヴァン・ヴァーゾフの『軛の下で』をはじめとする多くの著作、またアレコ・コンスタンチノフの『バイ・ガーニュ』、およびヨルダン・ヨフコフやエリン・ペリンの多くの物語が、大人向けのものにもかかわらず、やがて子どもたちのものにもなりました。こうした伝統は、今も受け継がれています。
3  池田 私もブルガリアの国民詩人ヴァーゾフの『軛の下で』が大好きです。ソフィア大学で講演したさいにも、この書を引用し、民族独立のエネルギーとなった人間尊厳の魂について論じました。
 ヴァーゾフは主人公に託してこう述べています。「彼のような崇高な心の持主にとって、障害や苦難は力を鍛える恰好の場である。抵抗は彼らを強くし、迫害は彼らをひきつけ、危険は彼らを奮いたたせる。なぜなら、それは闘いであり、いかなる闘いも人を気負い立たせ、高潔にするものであるからだ。闘いは、虫にあっては、自分を踏みつけた足を咬もうと頭をもたげる時美しい。闘いは、人にあっては、自衛のため立ち上がる時雄々しく、それが人類のためである時は神々しい」(松永緑彌訳、恒文社)と。
 私はこの言葉を、十八年前(一九八一年)、建国千三百年を祝う「文化の日」の前夜祭で、ソフィア市郊外の「平和の旗」の塔の前に集った千人のブルガリアの子どもたちに、贈らせていただきました。
 このような、人生の哲理とも言うべき苦難に立ち向かう敢闘と挑戦の精神を、幼いころから児童文学という形を通して教えることのできる貴国の文化環境をうらやましく思います。
 ジュロヴァ 今では、先生のメッセージを聞いた彼らも、社会の最前線で活躍していることと思います。

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