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日蓮大聖人・池田大作

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女性と家族  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 最近日本では、離婚率の増加が社会問題化していますが、日本ばかりでなく、離婚による家庭の崩壊は、世界的な傾向と言えるようです。
 近代まで、日本の社会はいわゆるムラ社会であり、「家」を中心にした家族制度の上に成り立った社会でした。日本では女性が結婚することを「嫁ぐ」と言いますが、その字は、「女」という字と「家」という字が組み合わさってなっており、たんに一組の男女の結びつきをこえた、「家」との結合という意味合いがありました。
 昔の日本の家族制度とは、家父長を中心にした家族、親戚という人間関係のもとで、伝統や習慣が不文律として重んじられ、個人の自由が拘束される、一種の集団社会としての側面がありました。生活のすみずみにいたるまで秩序、序列があり、囲炉裏端の座る場所までが定められ、兄弟でも家督を相続する長男と次男とでは、あつかわれ方にも大きな差異があったほどです。それゆえに、近代の自我の目覚めによって、この家族制度は批判の対象となり、文学の上でも大きなテーマとして問われてきました。
 旧来の家族制度は、強固な人間の絆をつくり、個人のわがままを許さぬ構造を持ちました。また義理、伝統、因習などがたくみに効力を発揮し、ムラ、家族といった共同体は、とりあえず円滑な関係を維持してきました。一方、結婚も、家と家とが姻戚関係を結ぶことですから、二人の意志だけでたやすく関係を破棄し、離婚することはできなかったわけです。
2  ジュロヴァ 農業国家であるブルガリアでも、つい最近まで――第二次世界大戦前まで――多世代家族が国の基盤でした。地方では四、五世代の家族共同体が見られ、そこには曾祖父母、祖父母、両親、子ども、孫などがいました。これらの共同体では、家父長制的な道徳規範が広く行われています。
 それらの共同体は、相互の寛容性に基づいて平和的に共存していました。また、この集団のメンバーは、農地への愛着によっても結びつけられていました。日本の状況も同じようなものだったのでしょうね。
 池田 そう思います。ところが、第二次世界大戦後、急速に工業化、都市化が進み、“核家族化”と言われる現象が出現しました。これは、夫婦と子どもだけの小家族を原子核のモデルにたとえたものです。
 日本の歴史においては、核家族的な家族形態は、第二次世界大戦後に形成されたわけではありませんでした。長年続いてきた大家族制度が第二次世界大戦中に崩壊した、という常識がよく日本で語られますが、江戸時代などは、両親が高齢になり、家督をゆずったりした時に別の所に住む、「隠居」という制度があり、三世代以上が同居することは少なかったようです。とくに都市部ではそうでした。大家族制度は、明治時代になり成立したものです。
 むしろ、日本の場合は同居しているかどうかではなく、血のつながりによる絆が重視されたことが特徴でしょう。家督を相続する父と長男の系譜と、そこから枝分かれした次男、三男など、また女性の系譜が複雑にからみ合いながら、別居をしている家族もすべて含んだ、“想像上の大家族”が形成されたのです。これは、実際は同居家族の少なかった江戸時代に形成されました。
 その想像上の家族のモデルは、宗教制度にも適用され、各宗派は「法主」を父とするような疑似家族的な形態をとりました。信徒は、父に服従するかぎりは守られる子どもというわけです。
 このような社会制度は、第二次世界大戦中に崩壊していきました。結婚にさいしては、かつてのようにイエの意向にしばられることなく二人の意志に基づいてなされ、日常生活にあっても、周囲の干渉にわずらわされることはかなりなくなりました。それに伴い、父権は喪失し、地域の連帯感はなくなり、一家一族の人間関係も希薄化しつつあります。その結果として、老いた両親の扶養に難色を示す傾向も現れ、離婚も夫婦間の些細な感情の行き違いで、たやすく成立してしまうきらいがあります。
3  ジュロヴァ 第二次世界大戦後のブルガリアでも、家族は、しだいに二世代家族へと移行し、女性も男性と同じ立場で働くようになりました。
 池田 もちろん、長い年月かかって形成された「意識」はなかなか変わらず、結婚の時などに、国籍が違う、家柄が違うなどと言って、親や親戚から反対されるということも、まだ、かなり見られます。
 このような制度のもとでは、女性は「第二の性」の役割を負わされてしまいます。日本社会が、ジェンダーの感覚においてまだまだ遅れていると言われているのは、このことが大きな原因となっています。
 私はかねてより、「二十一世紀は女性の時代」と考えてまいりました。また機会あるたびに、それを訴えてまいりました。現代社会における、また将来における女性の社会的位置づけについて、博士はどのようにお考えでしょうか。
 ジュロヴァ 『聖書』では、女性は「原罪」を犯したとされていますが、じつは、母権制社会以来、男性と女性が対等であることを示すために、さまざまな努力が行われてきました。そして、今や現代の女性たちは、歴史上見られたすべての試みをしのぐほどに、女性の力を示しています。
 女性と男性が生活のなかで対等の役割を果たすということは、女性と男性が同じ権利をあたえられるということです。『聖書』が言うように、女性が“りんご”などという些細なものをぬすんだからといって、男性を永遠に優位に立たせることなどできるのでしょうか。生活活動においては、男女はいつも対等だったのですから。“神”は、失われた女性の名声を回復させようとはしないのでしょうか。
 現代人は、もっぱら個人を志向しています。血縁関係は崩壊し、もはや親密な人間関係の基盤ではなくなりました。親密な人間関係の新しい基盤は、具体的な血縁関係と言うよりは、精神的なつながりとなっているからです。

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