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芸術のあり方  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  ジュロヴァ 東洋と西洋の芸術観を比較するために、まず、ヨーロッパの歴史を振り返ることから始めたいと思います。
 池田 博士はモスクワ大学で「芸術論」を専攻されたとうかがっておりますので、西洋から東洋の芸術観へと進んでいきましょう。
 ジュロヴァ ヨーロッパでは、古代文明の時代以来、芸術の目的は、歴史状況、人々の嗜好、社会体制の段階に従って、人間を精神的に完成させ、道徳的に形成することでした。古代ギリシャにおいては、人間や自然への愛は、一部のエリートのサークルをこえては広がりませんでした。一方、原罪や自己犠牲といったキリスト教的な概念は、キリスト教芸術と教会儀礼を通して、何百万もの人々に広まりました。ルネサンス期以前の中世芸術は、そのような「道徳的責任」を見事に遂行した、と私は考えています。
 池田 芸術が宗教の一環として、人間形成に大きな役割を果たしていた時代と言えますね。
 ジュロヴァ ところが、ルネサンスはそうした道徳責任をほとんど引き継ぎませんでした。ヨーロッパの芸術家たちは、人間や自然への愛を古代のパターンに従って表現するだけでは満足しませんでした。人間は解放されなければなりませんでした。人間は神の権威の崇拝からみずからを解放するなかで、みずからの考えでそれと同等の新たな権威を創造したのです。このことは、ヨーロッパの高度な個人主義を生みだしました。
 ルソーは「我々の存在は、我々の感覚が知覚する瞬間の連なりにすぎないことを、私は知った」「我感ず、故に我あり」と述べています。キリスト教は、知覚上の“感性”に置きかえられたのです。
 池田 デカルトは「我思う、故に我在り」と言いました。これは“神”に対する“理性”の勝利と言えるでしょう。また、この言葉は、中世スコラ哲学の最高峰トマス・アクィナスの「我在り、故に我思う」を逆転したものです。“存在”よりも“知”、“存在”よりも“感性”が重視されたのですね。
 ジュロヴァ そうです。そして、通信、交通の進歩によって、世界的な空間の広がりのなかで、芸術の地平線も拡大されました。たとえば、印象主義者、とくにゴッホは、日本の浮世絵に関心を持ち、ゴーギャンは、インドネシアと太平洋の芸術に関心を持ちました。
 また、アンリ・マチスとパウル・クレーは、コロンブスによる新大陸到着以前のアメリカの芸術に関心を持ち、キュビスト(立体主義者)のピカソとレジェは、アフリカ、アジア、オセアニアの芸術に関心を持ったのです。
 ヨーロッパの地平線の拡大は、こうした世界全般に対する根本的な再評価と結びついていました。このことは、第一に、美の基準に影響したように思われます。
 古代ギリシャ人やルネサンスの芸術家たちから継承した、「美とは現実にある自然の反映である」と見る“美の概念”は、変化をこうむりました。おそらくその変化は、「現実」というものについての新たな概念に関連していたのです。
2  池田 「現実」の概念がどのように変化したのですか。
 ジュロヴァ 「現実」は、人間の歴史的発展の結果であり、科学、技術、社会的諸関係の結果であり、あるいは、全般的な人間活動の結果である、とますます見なされるようになりました。芸術作品は、もはや、不変の外的・内的世界を映しだす「鏡」とは考えられず、人間と世界の関係の「モデル」(科学技術の分野から借用された用語)と考えられたのです。人間と世界の関係は、歴史的な時代状況や社会的構造に従ってさまざまでした。それに応じて、芸術作品も変化するととらえられるようになったのです。
 つまり、近代以降の芸術は、不変世界をそのまま映しだす“模倣”の行為ではなく、人間と世界との新たな関係に応じてつくり出す“創造”の行為となったのです。
 ゲーテは『ディドロの絵画に関する随筆への批判』の中でこう述べています。「自然と芸術の混合は、我々の時代の病である……芸術家は、自然のただ中でみずからの王国を見つけなければならない……それから発して、芸術家は第二の自然を創造しなければならないのだ」と。
 また、ドラクロアは、「芸術は模倣ではない。芸術は創造である。芸術は魂を培養しなければならず、芸術に教義を詰めこんではならないのだ」と書いています。
 ボードレールは、ゲーテやドラクロアが主張した“芸術とは「第二の自然」”から出発し、芸術作品は各々の時代に「モデル」を提供してきたと主張することによって、近代美学の基礎を打ち立てました。すなわち、芸術が、変転する自身と外的世界との関係を映しだすものであるならば、芸術によって、外的世界を創造し、変革することもできるのだと考えられるようになったのです。
3  池田 芸術をたんなる自然の写実ではなく、社会と人間との変化する関係でとらえる、歴史性のなかでとらえるということですね。
 ところで、ヨーロッパ芸術史のなかで、貴国ブルガリア芸術の位置はどのようなところにあるのでしょうか。
 ジュロヴァ ブルガリア美術は、ヨーロッパ美術の影響を受けました。ヨーロッパでおこったロマン主義が中世と東洋に、新古典主義が古代世界に目を向けたように、リアリズムはセンチメンタリズムと「芸術のための芸術」を否定し、その主題として現代の労働者たちを選んだのです。絵画のテクニックについては、リアリズムはあまり新しいものを寄与しませんでした(たとえば、ドラクロアやターナー)。それは、カラバッジョやオランダの芸術家たちが達成したものをしのいでいないからです。それにもかかわらず、リアリズムは一つの重要な問いを生じさせました。すなわち、芸術家の社会的使命の問題であり、ブルガリアの画家たちは情熱を持ってこれを支持したのです。
 ロマン主義とリアリズムの後に現れた印象主義は、芸術に第三の革命をもたらしました。印象主義は、リアリズムを受け入れる一方で、芸術の社会的機能は否定しました。
 新たな世紀の始まりとともに、ヨーロッパ各国の芸術学校で、社会の矛盾に対する社会変革への取り組みが行われました。ロシアのブーテマス・プロジェクト、ドイツのバウハウス(ワイマールの建築工芸大学)などでのプロジェクトです。ところが、これらのプロジェクトは、ファシズムによってその目的をさまたげられてしまいました。
 ポスト印象主義者は、社会矛盾の克服という先達たちが描いたユートピアを否定し、ふたたび、芸術の主題と形態のみに注目しました。

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