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民族と言葉  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  池田 一九八一年、貴国を訪問したさい、五月二十四日の「文化の日」の華麗なパレードを見学しました。その日は、スラブ文字の創始者であるキュリロスとメトディオスの兄弟を記念して設けられた祝日とされています。
 ジュロヴァ キュリロスとメトディオスの兄弟はブルガリアの誇りです。彼らによる文字の創案は、ブルガリアはもちろんスラブ民族の文化の曙です。
 池田 彼らが最初のスラブ文字、すなわちグラゴール文字を創案したことは、よく知られております。またソフィア大学は「クリメント・オフリツキー記念ソフィア大学」と名づけられていました。
 このオフリド(現在はマケドニアの一都市)のクリメント(クリメント・オフリツキー)は、キュリロス・メトディオス兄弟の弟子で、グラゴール文字に続いてつくられたキリル文字の普及に大きく貢献しました。
 私は、この二つの事例を通して、ブルガリアの人々が、文化、なかでも母国語というものをいかに大切にし、誇りとしておられるかを痛感したものです。
2  ジュロヴァ キュリロスとメトディオスの弟子の生涯と、彼らを取りまく伝説が今も残っています。
 池田 クリメントの作とも言われる二人の伝記が、『コンスタンチノス(キュリロス)一代記』と『メトディオス一代記』ですね。
 ジュロヴァ キュリロスは、キリスト教の教義に精通した優れた神学者であり、詩人でもあり、また世俗的な知識の称賛者でもありました。兄のメトディオスは、ビザンチン帝国内のスラブ地域の統治者として、また小アジアのビタニアのポリクロン修道院の大修道院長として、ビザンチウム(コンスタンチノープル)に拠点をかまえていました。
 池田 兄弟が活躍した九世紀ごろには、ポーランドやハンガリー、オーストリアにまで広がる大モラビア国がありましたね。モラビア(モラバ)は、現在では、チェコ東部の地域の呼び名です。
 ジュロヴァ その王ロスチスラフが、ビザンチン教会に主教の派遣を求めたのに対して、送った使節がキュリロスとメトディオスの兄弟だったのです。
 池田 王は要請にさいし、自分たちスラブ民族の言葉で布教できる人を求めていた。しかし、スラブ語を表記する文字がなかった。そこで、キュリロスらは文字をつくるという大きな課題を担いました。
 ジュロヴァ この二人の兄弟の並はずれた才能と博識は、まったく新しい文字の創案という形で表現されたのです。この創案は、「書体」の歴史においては、ほとんど並ぶもののない偉業でした。
 池田 キュリロスとその協力者たちがつくったグラゴール文字は、ごく少数の例外はありますが、当時のスラブ語の一音に一文字を当てた表音文字ですね。じつによく音声的特徴をとらえたものだと評価されています。
 ジュロヴァ グラゴール文字は、ブルガリアの話し言葉の音を、スラブ語の古い西南地域、テッサロニキ周辺の方言で伝えています。その文字体系はきわめて精密なものです。
 池田 テッサロニキは兄弟の出身地ですね。
 ジュロヴァ はい。テッサロニキの多くの市民と同じく、彼らは、ギリシャ語とスラブ語に精通していたのです。
 グラゴール文字は、きわめて独創的なものです。おそらく、ギリシャ文字、ラテン文字をはじめ、コプト文字、ヘブライ文字など、さまざまな文字から示唆を受けたと思われます。
 エミル・ゲオルギエフ教授と、フィンランド人の学者ヴァレンティン・キパルスキーは、文字の創造は個人的な霊感による行為であり、スラブ文化の自律性を示すものであると指摘しました。また、ゲオルグ・チェルノーヴォストフは、キュリロスとメトディオスの布教という観点から、次のことを指摘しました。
 それは、個人的霊感によって創案された彼らの文字の基礎は、キリスト教信仰の三つの基本的なシンボル、すなわち、十字架(キリストのシンボル)、三角形(三位一体のシンボル)、輪(父なる神の無限性と全能のシンボル)を含んでいるということです。
 池田 興味深い指摘です。その仮説が正しいとすれば、新しい文字には創案者の深い信仰がこめられていたと言えるでしょう。
 ジュロヴァ グラゴール文字に、ヘブライ文字やラテン文字、ギリシャ文字などとは異なる音を導入することは、複雑に入り組んだ難問でした。
 私が感銘を受けたのは、よく知られたヘブライ文字、ラテン文字、ギリシャ文字をしのぐ書の体系を創造しようとし、その体系に、スラブからキリスト教への急激な改宗のさいに用いるのにふさわしい、複雑な「意味論」と「形象」をあたえようとしたキュリロスの試みです。
3  池田 学者らしい深い洞察です。当時すでに、キリスト教の聖典に用いられていたヘブライ文字、ギリシャ文字、ラテン文字におとらぬ優れた文字を生みだし、スラブ民族に信仰を伝えようとしたのですね。
 ジュロヴァ 彼らの残りの人生は、スラブ文字とスラブ文化の正当性を、ヨーロッパに打ち立てるための絶え間のない闘争に費やされました。
 池田 既成勢力であった(カール大帝の)フランク教会などの妨害があったのですね。当時のフランク教会はアルプス以北に大きく広がり、ローマ・カトリック教会にも肩を並べる勢力でした。しかし民衆は、自分たちの言葉、スラブ語での典礼を支持していた。
 ジュロヴァ 二人は、グラゴール文字を創案した後、弟子の助けを借りて基本的な典礼書の翻訳を行いました。
 池田 ところが、キュリロスは、ローマ教皇の招きに応じて訪れていたローマで亡くなります。兄のメトディオスは、種々の迫害を受けても屈せず、弟子たちとともに宣教を続け、翻訳事業を進めました。兄弟の死後、迫害が強まり、弟子たちはモラビアを追放され、ブルガリアへと逃れます。そして、王ボリス一世の保護を受け、首都プリスカに迎えられました。クリメントは、ボリス一世の子シメオン王の時、新たに首都となったブルガリア東部シュメン近くのプレスラフと、現在ではオフリドを中心とするクトミチェヴィツァ地方で事業を続行しました。
 この時代に、新しい文字がつくられ、これに師のキュリロスの名を冠して「キリル文字」としたとの伝承は有名です。この文字がスラブ民族に広く用いられていきました。このことから、ブルガリアが「スラブ語の故地」とされます。クリメントはオフリドに派遣され、ブルガリア人聖職者の育成を任されました。そこから、「オフリドのクリメント」と呼ばれるようになりますね。
 ジュロヴァ 八九三年に、プレスラフで、シメオン王によって「全キリスト教宗教会議」が開催された折、キリル文字が正式に承認されました。
 池田 同年、クリメントは、最初のブルガリア主教となってプレスラフへ移り、プレスラフ派がブルガリア文学の「黄金時代」をつくり上げました。
 ジュロヴァ キリル文字は、グラゴール文字を非常に厳格に変換したものです。大半の文字は、ギリシャ語の大文字のウンキアリス(アンシャル)体から借用されています。そして、ブルガリアの音の表記に適合させた残りの八文字は、グラゴール文字の様式を変えたものです。
 池田 すでに慣れ親しんでいたギリシャ文字を基調として、馴染みやすくしたのですね。
 弟子たちは、この文字をもって聖典、典礼書を相次いで翻訳するとともに、創作活動も活発に行いました。
 ジュロヴァ グラゴール文字に置きかわったキリル文字は、王室の勅令で用いられたギリシャ文字とラテン文字に近いものでした。そして新たな文字は、聖職者によって、また王室の文書室の中で急速に採用されたのです。
 池田 実用的だったのですね。ちなみに、その後、グラゴール文字はどうなったのですか。
 ジュロヴァ グラゴール文字の生命は短いものでした。グラゴール文字は、南スラブ人が住む地域ではキリル文字に、また西スラブ人が住む地域ではラテン文字に、たちまちとってかわられたのです。
 グラゴール文字は、バルカン半島の西の一部のボスニアとヘルツェゴビナだけで、今日まで維持されてきました。主としてダルマツィアのアドリア海沿岸です。そこではグラゴール文字は、ラテン文字の影響下で大きく変形しています。
 池田 ダルマツィアとは、現在のクロアチア共和国の南東部ですね。ところでスラブ文字の歴史を見ると、民族の独立性と言語が密接にかかわっていることを深く実感します。
 ジュロヴァ 現在、スラブ語は、すべてのスラブ民族を統一するために中世に現れた、スラブ各民族を超越する国際的な言語と考えられています。そこで古代ブルガリアの文学は、「パラダイムの文学」と考えられます。
 池田 スラブ文字の誕生が、スラブの各民族に、同じ一つのスラブ民族としての自覚と誇りをもたらしたのでしょう。それはまた、ブルガリアで勃興したスラブ語による文学が、スラブ人にとっては当時の既成勢力だったビザンチンとラテンの両文学から抜け出し、それらと並ぶものとなったということですね。
 それまでは、スラブの地の文化は、ビザンチンとラテンの二大文化に追随するものでした。ブルガリアでは、どのような経緯をたどっていますか。
 ジュロヴァ 影響力のおよぶ範囲をめぐる、ローマ・カトリック教会とコンスタンチノープル(ビザンチウム)の正教会の闘争は激化し、九世紀半ばには、最初のカトリックの宣教師たちがブルガリアにやって来ました。ブルガリアは、ローマ教会かコンスタンチノープル教会か、どちらかを選ばなくてはなりませんでした。

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