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日蓮大聖人・池田大作

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鎌倉仏教と日蓮大聖人  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  ジュロヴァ 仏教が日本人にとって、「個人的な宗教」となったのは、日蓮大聖人(一二二二年―一二八二年)などが活躍した鎌倉時代であったと述べられました。そこで、日本の仏教史における日蓮大聖人の役割について教えてください。
 池田 人間の思想は、偉大な思想家の登場によって大きく転換することがあります。しかし、偉大な思想家は、時代を呼吸して誕生すればこそ、広く人々に対して影響をあたえ得るものです。その先例には、まず釈尊が挙げられるでしょう。
 釈尊が登場したころ、インドでは、都市国家の隆盛とともに社会の構造が流動化し、従来の制度が空洞化していきました。
 時代を支える精神的支柱であったバラモン教は、時代の変化に即応する柔軟性を失い、しだいに現実の諸問題に対する影響力を失っていきました。
 これに対して、新時代の到来に呼応して、沙門(サマナ)と呼ばれる新思想家が登場しました。
 そのなかには、唯物論者もいれば、不可知論者もいれば、運命決定論者もいれば、虚無主義者もいました。
 それは、確かに、時代がはらんでいる状況の片端、片端を説明する原理でありました。
 しかし、混沌を秩序へと向かわせるには、力不足は否めなかった。その結果、種々の思想、哲学が百家争鳴たるありさまでした。まさに時代の混沌を象徴しています。
 そこに、釈尊が登場します。
 人間を深く見つめた釈尊は、人間の苦悩の根源を探り、その根本的解決のための普遍的な「法」を探究しました。そして、その探究の成果を説き示した教えが仏教です。
 経典を見ますと、釈尊自身は、独自の宗教を打ち立てるつもりはなかった。むしろ、過去に先に目覚めた人々(諸仏)の道をみずからも歩む、と述べています。
 ただ、その道は、目覚めた人ならばだれもが歩む最高の真実の道である、との絶大なる確信を持っていました。その道は、人間を深く探究した者ならばだれもが発見できる、人間存在の「真実」でありました。
 ご指摘のあった日蓮大聖人が登場した、平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけても、日本の歴史上、古代から中世へと向かう時代の大転換点でありました。
 とりわけ日本においては、古代の政治・社会制度が行き詰まり、中世の始まりが、経典に基づいて“釈尊の仏法”の終末期とされていた末法の開始(一〇五二年)と重なりました。
 仏教界の内部的理由としても、旧来の秩序の崩壊から新たな秩序の構築の必要に迫られていたのです。仏教誕生の当初と同じく、この時代も、旧来の価値観は崩壊し、社会は混沌を極めていました。
 鎌倉仏教の祖師とされる人々、また既成宗派の再興を担った人々の登場もまた、その混沌たる状況を体現するものであったと言えるでしょう。
 そのなかにあって、日蓮大聖人は、みずからの宗教活動を「時のしからしむる耳」と表現しています。この言葉に象徴されるように、鎌倉時代におこった仏教各派は、時代、社会の大転換のなかで、精神的機軸として誕生してきたものであると言えるでしょう。平安時代末期から鎌倉時代は、中世の始まりであるとともに、中世的な都市の成立の時代でもありました。ヨーロッパでも中世において、「都市の空気は自由にする」と言われましたが、日本においても、中世都市は、しばしば“個の目覚め”の場としてとらえられています。
 鎌倉時代に興隆した諸宗派は、いずれも京都、鎌倉という二大都市をはじめとする中世都市を中心にその広がりを見せております。これらの諸宗派は、古代の天皇を中心とした貴族社会から、中世の都市の民衆を中心とした社会への変化にこたえられる契機を内包しているものです。そして、それゆえにこそ、新たな時代を支える精神原理として機能した、と言えるでしょう。
 その特徴として、
 ①国家安泰から個人の救済へ
 ②すべての人に平等の救済法
 ③複雑な儀礼から簡潔な実践へ
 などが挙げられます。
 「①国家安泰から個人の救済へ」とありますが、日本に仏教が伝来して以来、仏教に期待されていた主たる機能は「鎮護国家」でした。また、国家を統治する為政者――天皇およびその機能を代行する貴族集団――の健康、長寿、幸福でした。
 平安時代を通して、政治はほぼ藤原氏一族に掌握され、一族内部での権力闘争という様相を帯びてきました。権力を私物化した為政者たちは、もはや、国家全体の安全と繁栄から離れて、個人の現世の栄華や死後の冥福を祈るためのものとして、宗教を用いる傾向が強くなりました。
 元来、国家の官僚とも言うべき存在であった僧侶たちも、その意に迎合し、仏教は公共性を失っていきました。鎌倉期の仏教は、官僚の僧ではなく、「市の聖」等と称された私度僧(官許を受けることなく出家した僧尼)などによって担われていることが大きな特徴です。
 諸宗派のリーダーたちは、官僚の僧を養成する総合大学とも言うべき比叡山などで仏教を学びますが、そこから巣立って独自の路線をたどっていくのです。
 彼らには、共通して、既成権力の私物と化した仏教を、広く開かれたものにしようとする志向が認められます。そのために、国家安泰よりも、むしろ「個人の救済」を重視するものとなっています。
 鎌倉新仏教諸派の揺籃の地は、天台宗の比叡山でした。平安末期、同山では、「天台本覚思想」と後に名づけられる、『法華経』を基盤とした天台教学の発展した形がさかんになっていました。「天台本覚思想」は、すべての人の平等な救済と個性の開花の原理を示す『法華経』の一仏乗思想を根底にしています。さまざまな苦悩や問題点をかかえたふつうの人間も、本質的には、人格完成者である仏と平等であり、そのことを覚知することによって、苦悩する自身がそのまま仏となるとの主張を持っています。
 この本覚思想の基盤の上に、鎌倉新仏教の諸宗派が誕生していきます。この側面から見れば、鎌倉新仏教諸派は、『法華経』が示す人間の本来的平等を、現実に実現していこうとする試みであった、と言えるでしょう。
 それが「②すべての人に平等の救済法」という傾向を帯びる要因となっているのではないでしょうか。
 そして、この②の傾向は、実践の要件として、いつでも、だれにでも可能であることを求めることになります。その結果として、「③複雑な儀礼から簡潔な実践へ」という傾向が生まれてくることは容易に理解できます。
2  ジュロヴァ 簡潔な実践とは、具体的にはどのようなものだったのでしょう。
 池田 「実践の簡潔化」の先駆けには、源信が挙げられます。
 源信は、天台宗の四宗兼学(法華、密教、律、禅の四宗をともに学ぶ)の伝統を引き継ぐ一方で、仏法の素養のない人々の実践として念仏を用いました。仏の姿を念ずればよいと言うのです。これは、僧侶のように、仏道修行に専心できない一般の人々の状況を考えて、「易行化」の試みをしたものと言えます。
 この源信の流れが大衆の幅広い支持を集めたのは、法然以降です。法然は、末法到来への危機意識を先鋭化し、「易行化」を徹底し、「口称念仏」の専修をかかげました。すべての人に同じ一つの易行を徹底しようとしました。
 しかし、そこには教理の真偽よりも修行の容易さを優先する誤りがあり、宗教の真価を見失わせる危険をはらんでいました。日蓮大聖人は、その点を鋭く指摘しています。
 しかし、日蓮大聖人は、決して「複雑な儀礼」を温存し、仏法を聖職者階級の独占物に放置したのではありません。むしろ、まったく反対です。「一閻浮提」すなわち全世界の人々に開かれた仏法を確立し、万人が実践できる修行を打ち立てようとしたのです。
 それゆえ、法の最肝要を探求しました。そして、それを『法華経』に見いだし、その「心」「肝要」をとり出して、人々に教え示したのです。
3  ジュロヴァ 私は、日蓮大聖人は一人の人間に徹して焦点をあてたと理解していますが、正しいでしょうか。
 池田 ご賢察のとおりと思います。先ほどふれましたように、日蓮大聖人の特色とは、『法華経』を根本とすることの徹底であった、と言えるでしょう。
 古代から中世への転換期に求められている「個人の救済」、および、それを支える平等の思想は、『法華経』に基づくものです。
 日蓮大聖人は、当時の諸宗派が前提として持っているはずの、人間にもともとそなわっている尊厳とそれを開花させる力への尊敬の念を、「仏(釈尊はじめ諸仏)の心」「法華経の心」であるとし、これを根本とすべきことを示したのです。
 一般的に、日蓮大聖人が同時代の諸宗派に対し、非寛容であるかのように誤解されがちですが、日蓮大聖人は、諸宗派が前提にしているはずの「法華経の心」を見失っている状態を鋭く指摘し、前提との矛盾点をえぐり出しただけなのです。
 それは、諸宗派の根源にかかわる問題であったために、諸宗派は大きな問題としてさわぎ立てたのではないでしょうか。
 日蓮大聖人は、この「法華経の心」がみずからの生命にそなわっていることを覚知し、このことを、『法華経』の忍難弘通によって、身をもって示し表しました。
 日蓮大聖人が内なる覚り(内証)として得ていた法が、あらゆる仏たちに共通の根源の覚り、「法華経の心」であることを証明したのです。
 日蓮大聖人にとっては、「法華経の心」である「妙法」を説き広めることは、『法華経』を通して示された釈尊の心を引き継ぎ、また、『法華経』を重んじた天台大師智、伝教大師最澄の心にも相応するものでした。
 日蓮大聖人は、みずから「法華経の行者」と名乗っているように、仏教の精髄を秘めた『法華経』を根本とする「法華宗」の正統との自覚に立って行動したのです。
 私は、この日蓮大聖人の行動を「すべての人々の幸福のために」と誓った釈尊の心のルネサンス、仏教精神のルネサンスである、ととらえています。
 「法をよりどころとし、自らをよりどころとせよ」と釈尊は亡くなる直前に説きました。私はこの教えを、一個の人間に内在する普遍的な価値を説き示したものと見たいのです。まさに、日蓮大聖人において仏教は、「個の自覚の宗教」として、民衆の生命変革の法理として躍動した、と言えましょう。
 鎌倉新仏教の諸宗派のリーダーたちは、確かに、多くの人々を幸せにしたいとの動機に立って、時代を呼吸し、その要請に応える努力をした、と言えるでしょう。
 しかしながら、その後代の弟子たちを見ると、現実変革よりも死後の冥福を強調したり、現実社会から遊離してしか実現できない修行を強調したりするようになっています。
 その主張の根底には、人間への信頼の不完全さを感ぜざるを得ないのです。
 人間をどこまでも信じ、その可能性をあくまで信じるならば、いかなる現状であろうとも、「今、ここ」に立って、その場を転換して幸福を切りひらいていけるのではないでしょうか。
 先に挙げた釈尊の遺言は、そのような深い人間への信頼の言葉であり、人間主義の復興の宣言であると考えるのです。
 そして日蓮大聖人は、釈尊がめざした「人間の尊厳の復興」という大人権闘争を、鎌倉時代の日本から、万人に開かれた新たな形で、未来に向けて開始した仏教者でありました。
 また、日蓮大聖人は大衆のなかで行動するとともに、為政者(王)への働きかけをも行っています。
 当時の最高実力者である北条時頼に対して、「立正安国論」という論文を送っています。日蓮大聖人にとっては、日本の為政者を「わづかの小島のぬしら主等と呼ぶように、仏法のもとには大衆も為政者も平等です。むしろ、為政者を「民を親」として仕えるべき、いわば、公僕としてとらえていました。そして、為政者はその役割をまっとうするために、「正法」に基づき、「安国」を実現する責務を負っていると考えていたのです。
 為政者を含め、各個人が仏法の理想である「法華経の心」を身に体して現実社会で行動する時、社会の変革も、理想社会の実現もあると説き示しています。
 一人の「人間革命」を前提として、社会の変革、理想社会の建設をめざすのが、「立正安国」の思想です。したがって、「安国」の“国”とは、日本国をも含んで「地球社会」をさし示し、人類の恒久平和、永遠なる繁栄を意味しております。
 地球人類の安穏なる共生をめざす「立正安国」という社会的条件の整備は、近年ようやく重視され始めた平和の権利、環境の権利等の「第三世代の人権」の確立に相当するもの、と言えるのではないでしょうか。
 人間の尊厳を基調とした「地球社会」の構築は、私たちが生きるこの現実のなかで、すべての人々が自己実現するための保証として必然的に求められるものであるからです。

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