Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

聖徳太子と大乗仏教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
1  ジュロヴァ 聖徳太子(五七四年―六二二年)について、いくつかお聞きしたいと思います。聖徳太子によって六〇四年に発布された、いわゆる「十七条憲法」は、第二条において、仏・法・僧の三宝をあつく敬うことを述べております。なぜ、このような条文が憲法に組み込まれたのですか。また、そのような宗教上の方針が立法府でつくられ、憲法の中に採択された結果はどのようなものでしたか。また、それ以降の世紀においては、どのように生活のなかに取り入れられましたか。そして、それらは、いまだ日本国民に敬われているのでしょうか。
 池田 ご質問にある「十七条憲法」も含んだ聖徳太子の統治理念は、その後の日本のあり方に影響をあたえております。
 「太子信仰」という言葉が日本には存在します。聖徳太子は日本において、ある“特別な感慨”をもって尊敬されているのです。日本の子どもたちが学ぶ歴史では、聖徳太子はおそらくもっとも有名な登場人物の一人でしょう。また、かつては、日本の最高額紙幣には太子の肖像が描かれていました。
 「太子」は本来、王の子ども、とくに、王位継承者をさす普通名詞です。しかし、日本において、「太子」と言えば、他のだれでもなく、聖徳太子のことをさしています。
 平安時代以降、聖徳太子を中国の南岳大師の生まれ変わり、観音菩薩の生まれ変わりとする伝説が生まれたり、太子の像が崇拝されるなど、太子に関する尊敬は宗教的なレベルまで高められていったのです。
 私がここで述べておきたいのは、「神」のようなカリスマ性を付与された聖徳太子という人物に言及する時、史実と伝説、事実と潤色とについて注意する必要があるということです。とくに、大和朝廷の支配の確立に太子が多くの貢献をなしたことから、保守主義者やナショナリストのなかには、太子の業績を過大評価する傾向を持つ人々もいるのです。
 まず、知られている太子の事跡を、簡単にまとめて述べておきたいと思います。
 六世紀の末に、叔母であった推古天皇の摂政となり、冠位十二階を制定、十七の条文からなる憲法をつくり、中国を統一した隋に外交使節を送るなど、まだ揺籃期にあった日本の大和王権の成立に大きく貢献――これが、日本の中学や高校で学ぶ聖徳太子のおおまかな事跡でしょう。まだまだ聖徳太子の事跡については、不明瞭な部分、論争が絶えない部分も多いのですが、以上のことはほぼ間違いのない事実とされています。
 ご質問の「十七条憲法」ですが、これはその後の国家のあり方を決めた「法」というものではなく、官僚や豪族にあてた「訓戒」という色彩の強いものです。したがって、「十七条憲法」そのものというより、「十七条憲法」に表れた太子の理念が、後の日本のあり方に影響をあたえたと申し上げた方がよいと思います。
2  ジュロヴァ それはどのような形ででしょうか。
 池田 たとえば、「和を以て貴しとなす」という「十七条憲法」の理念は、江戸時代、明治昭和時代という日本の近世、近代の国家統治理念形成の大きな支柱となりました。しかし、この理念は、社会的安定には役立ちましたが、ともすれば、徹底した論争を避ける“対立の回避”というような政治的目標として利用されてきたことも事実です。
 ここで、太子の統治理念に関して、もう少し述べたいと思います。非常に厳密な研究者は、太子の作とされるほとんどの資料に疑念をはさんでいますが、その人たちの多くも認める言葉がいくつかあります。太子が自身の子の山背大兄王にあたえた遺言という「諸悪莫作、諸善奉行(諸々の悪は行ってはいけない。諸々の善を行うべきである)」がそのうちの一つです(『日本書紀』)。これは「七仏通誡偈」と呼ばれ、仏教で伝えられる「七仏」が共通して説いたもの――仏教の根本精神を示すもの――とされています。
 また、太子の死後、太子の妃である橘大郎女が織らせたという「天寿国繍帳」には、「世間は仮の事象であり、唯仏だけが真実である」という、“太子の口癖”と言われるものが記されています。このことから、太子が仏教に深い造詣を持っていたことは確かなようです。
 さて、日本に仏教が伝わってきたのは、前節でも述べましたように、六世紀のこととされています。もちろん、この仏教とは、いわゆる北伝大乗仏教であり、東南アジアに伝わった上座部仏教ではありません。
 当時は、朝鮮半島から多くの技術者たちが渡来し、黎明期の日本の建設に、大きく貢献していました。その後に、百済の聖明王から日本の欽明天皇へ仏教は公伝されることになりました。紀元五三八年、紀元五五二年の両説があります。
 日本に仏教が伝わった意義については、さまざまな研究がありますが、政治的・外交的事情から見た聖徳太子による仏教受容の意義を取り上げたいと思います。もちろん、歴史的に見て本当に聖徳太子の手になったのかどうかは、つねに疑問の余地があります。
 仏教の公伝以前、日本、当時の呼び名で言えば“倭国”は、中国との間に「冊封関係」を結んでいました。「冊封関係」というのは、東アジアの巨大国家・中国に対し、周辺国家の王が朝貢し、その国の統治を「認めてもらう」ことです。中国では、儒教等の影響から、その領土および領民を、皇帝を頂点とした「天下」と呼びました。天の命令は、中国皇帝を中心とした社会システムによって天下全域におよぶというわけです。
 仏教の世界観は、この中国皇帝を中心とした「天下」の思想にまっこうから対抗するものでした。仏教の世界観によれば、中国の皇帝も結局、生死流転にさまよう、迷える衆生にしかすぎないのです。仏教は、日本の支配者たちに、中国からの独立をうながす思想的基盤をあたえたのです。
3  ジュロヴァ よく分かります。私が知るかぎりでは、日本という名称が最初に記載されたのは、聖徳太子がみずからを“日出ずる処(中国語でリーベン、日本語でニホンあるいはニッポン)の天子”と言い“日没する処(あるいは中国)の天子”に国書を送った六〇七年でした。
 池田 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」(『新訂魏志倭人伝他三編』石原道博編訳、岩波文庫)の文ですね。
 聖徳太子が隋に外交使節を送ったことは、よく知られていますが、その外交使節に託された親書にそのようにしたためられていました。「日出ずる処の天子」とは日本の天皇、「日没する処の天子」とは隋の煬帝のことをさしています。天子が二人いるということは、先に述べた中国の「天」の思想からはあり得ないことでした。このため、煬帝は激怒したと言います。まさしく、この親書の「宣言」の背後には、仏教の思想があったのではないでしょうか。

1
1