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日蓮大聖人・池田大作

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ブルガリアにおけるキリスト教の受容  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 ブルガリアは、キリスト教として東方正教を受容しましたが、ブルガリア史のなかでの東方正教会の役割について、すでに語りあったことと若干重複するかもしれませんが、お話しください。
 ジュロヴァ ブルガリアでは、キリスト教の受容は政治的行為でもあり、ヨーロッパ世界によってブルガリア国家が承認される契機となりました。当初は、キリスト教の受容は、国家という理念を支えるものでもありました。キリスト教は、土着のトラキア人やスラブ人や原ブルガリア人に見られたさまざまな宗教を否定したからです。
 キリスト教は、苦悩、善悪の理念、罪と罰の理念などについて説きましたが、それらは、異教を信仰していた原ブルガリア人、スラブ人やトラキア人にとっては本質的に異質なものでした。それで、キリスト教の受容後、ただちに反応がありました。
 八六五年にブルガリア人たちの洗礼を行ったのは、ボリス一世でしたが、その息子であるブラディミールが、旧来の異教信仰を回復するための反乱を起こしたのです。ボリスは反乱を鎮圧し、息子ブラディミールの目をつぶし、反乱分子たちを家族とともに殺害しました。
 神秘主義的な共同体における異教では、魂の不滅が信じられ、秘伝を受けた者だけがその構成員となりました。彼らが礼拝する神々は、主として、民衆の生活で決定的な役割を演ずる豊穣と不死の神々――ディメテル、ペルセポネ、ザルモクシス――でした。
 タングラ(天光の神)を信仰するブルガリア人の一神教的な傾向や、ペルーン(雷神)を好みながらも多神教的なスラブ人の宗教については、くわしく論じませんが、次のことだけは述べたいと思います。それは、スラブ人とブルガリア人は、異教的なギリシャ・ローマの叙事詩や、文学、芸術を歴史的背景としていなかったことにより、両者がきわめて似たものになったということです。
 九世紀におけるブルガリアのキリスト教への改宗は、ブルガリアの伝統的な精神性をかき乱し、不安と混乱をもたらしました。しかし、私たちが心にとめておかなければならないことは、ブルガリア人の多くが、公的な改宗以前に、すでにキリスト教を受け入れていたという事実です。一部の人々にとっては、ボリス一世はただ完成された事実を公式に認識しただけだったのです。
2  池田 それは日本においても言えることかもしれません。日本に“公式”に仏教が伝来したのは五三八年(五五二年説も)とされています。しかし、それ以前に、朝鮮半島から日本に渡来していた人々によって、仏教は伝えられていたとされています。
 ジュロヴァ ブルガリアの土壌に、すでにキリスト教が非公式に存在しており、それがキリスト教と国民の信仰や風習を織りあわせるのに役立ったことは、強調されるべきでしょう。
 それにもかかわらず、キリスト教は人々の意識のなかに深く浸透することはできず、儀礼、祝祭日、慣習のなかには相変わらず異教が存在し続けたのです。
 ボリス一世は、悪法を導入し国家体制を破壊し、ブルガリア人に彼らの世俗的、文化的、精神的伝統に対抗するような生活様式を強制した、と非難されました。しかし、ボリスの改革はさらに進みました。
 彼は、国家とキリスト教とは別に、スラブ族と原ブルガリア人を統合する第三の要素を求めたのです。それは文字でした。キュリロスとメトディオスが、モラビアの西スラブ人を改宗させる宣教活動に失敗した後、ボリス一世は彼らの弟子たちを迎え入れました。ここから、文化の発展が開始されたのです。
 この文化は、ボリス一世の息子であり後継者であるシメオン皇帝(在位八九三年―九二七年)治下で急速にビザンチン化しましたが、同時に、スラブ文化の最初の特徴も形成されました。一世紀ほど後、他の東方正教諸国も、このスラブ国家、スラブ文化、スラブ文字の最初の例にならいました。
3  池田 それまでのギリシャ文字等に代わって、キリル文字が使われだしたということですね。
 ジュロヴァ その後、抵抗はありましたが、九―十世紀にかけて、キリスト教はブルガリアに公式に受容されました。日常生活や儀礼については異教的な様式や慣習が残ったものもありましたが、ともあれキリスト教が、ブルガリア人の文化的、精神的発展の鍵をにぎる基盤となったのです。
 キリスト教の受容は、たんにビザンチンの国家、文化、宗教制度をわが国に導入することではありませんでした。ブルガリアではとくに、(九―十世紀の)ボリスとシメオンの治下におけるキリスト教解釈は、コンスタンチノープル的と言うよりは、むしろ東欧的な特徴を帯びていたのです。
 ブルガリア民衆は、キリスト教を生活とは関係のない形でとり入れていたのです。

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