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日蓮大聖人・池田大作

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東方正教会の人間観  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  ジュロヴァ 私は、ここで、東洋と西洋に見られる主体と客体の二元論、および一元論について、考えてみたいと思います。一元論をとる東洋とは異なって、西洋哲学では主体と客体の二元論は典型的なものです。
 二元論か、あるいは主体と客体の統一かという点は、美学においても東西を分けています。西洋は、完全な美を神の領域に移し、それを日常生活から分離したのです。
 一方、東洋では、美はかなり主体的なものであり、それは客体の中に体現されます。
 このような二元論的な特質は、西洋人の外向性、実際性、理性信仰を説明します。西洋では、何千年にもわたって、「ロゴス」(言葉、理性)が最高位に君臨してきました。
 他方、主体と客体を一つのものと見る考えにより、東洋思想の内向性と人間の内的世界への志向と内省が理解できるでしょう。そこでは、真理はせまい、限定的な知性の境界を乗り越えた時に達成されるのです。
 また、西洋哲学では、哲学と宗教は分離しているのに対し、東洋思想においては、美学、芸術、哲学と宗教は融合しています。
 東洋の人々の精神には、倫理的要素が強く埋めこまれており、西洋の人々の精神には、合理的要素が深く埋めこまれているのです。
 池田 東洋と西洋を対比して考察するならば、博士が指摘されたとおりです。西洋が二元論的思考を主軸とするのに対して、東洋では、一元論的傾向性が濃厚だと言えるでしょう。
 ジュロヴァ 西洋における人間中心主義は、人々が神の創造力と優劣を競うこと、すなわちデミウルゴス(世界の形成者)になることも可能にします。他方、東洋の宇宙中心主義は、自然崇拝をもたらすのです。
 西洋で、被造物および自然に対する人間の支配が生じるのは、自然にとけこみ、その一部になりたいとの願いからではなく、つねに自然を変えていきたいとの願いからです。
 これは、進展してきた個人主義の結果であり、その個人主義は、ユダヤ・キリスト教で表現され、ルネサンスの人間支配において完全に展開されたのです。
 西洋人の人間中心主義とその創造力は、ルネサンス期に、人間に神のレベルにまで昇る権利をあたえました。初期ルネサンスの代表人物の一人であるアルベルティは、「人間は、望むならばいかなることもなし得るのだ」と述べています。
 これは、「巨人(タイタン)の時代」への第一歩でした。すなわち、ギリシャ・ローマ時代の魅力的な文化が見直され、高く評価されたのが、ルネサンスの時代だったのです。その時代は、“ルネサンス的人間”がリードすべきだ、と考えられました。
2  池田 「巨人」とは“ルネサンス的人間”ということですね。
 ジュロヴァ “ルネサンス的人間”は、何ものとも比較できない至高の価値を持っていました。人間は世界を超越し、神を超越した存在だったのです。“ルネサンス的人間”は、肉体、精神、魂の統合をなしとげた巨人であり、英雄だったのです。ルネサンス期以降に見られた思想の発展は、人間の精神の力強さを重要視するものでした。
 池田 仏教の関心事は、初めから“人間自身”でした。人間の中に“宇宙”を洞察したのです。“外なる大宇宙”と共鳴し、その根源において一体となった“内なる宇宙”を発見したのです。その意味において、一個の人間生命に無限の可能性を主張するのです。
 ジュロヴァ よく分かります。人間は“宇宙の普遍性”を身に帯びており、自己発展の無限の可能性と、社会を富ませる無限の可能性を持っています。言いかえれば、“普遍性”と“人間固有の特性”が調和して発展しゆく時に、“善”と“悪”をコントロールするという人間の使命を達成することができるのです。物質と精神の発展のバランスを維持することができれば、よりよい生存の状態をつくりだすことができるでしょう。
 これが、人間の使命と善悪のコントロールについての、私たちの解釈です。
 池田 仏教では、生命の中に、慈悲心、知恵、信、非暴力等の善心とともに、悪心として瞋恚や貪欲を含む多くの“煩悩”を見いだしていますが、それらの悪心は、心の一部をなすゆえに、煩悩をなくそうとすれば、心そのものを失ってしまいます。大切なのは、心を制御して煩悩を正しい方向へと昇華していくことです。“善”と“悪”のコントロールという点において、博士の考え方に同意します。
 釈尊はこう言っています。
 「心を制することは楽しい。心をまもれ。怠るな。生けるものどもは心に欺かれている」(前掲『ブッダの真理のことば 感興のことば』)と。
 ジュロヴァ 現実問題として、何が“善”で何が“悪”かを決定するための、恒久的な立場というのは、存在するのでしょうか。また、あらゆる時代に有効な普遍的な定義、ただ一つの見解を見いだすことは可能なのでしょうか。
3  池田 固定的で、絶対的な基準を見いだすことはできないのではないでしょうか。仏教では、固定的な「善悪二元論」に対して、「善悪不二」を主張しています。つまり、「善悪」は一体不二でありつつ、現象面では「善」と「悪」として顕現するという法理です。
 ジュロヴァ ギリシャの対話『自由意志について』の、十世紀のペトル皇帝治下に著されたブルガリア語の翻訳の中で、善悪の問題は哲学的二元論と関連してあつかわれています。すなわち、「見える世界は無から生じたのであろうか、あるいは何かあるものから生じたのであろうか。もし何かあるものから生じたとするならば、このあるものは、神の存在と同時に存在したのであろうか。
 もし無から生じたとすれば、創造者である神は、悪の創造者でもあると考えられるべきであろうか。神はなぜ、『悪魔』に擬人化される悪の存在を許してきたのであろうか。
 また、人間の行いは神の摂理によってあらかじめ決められているのだろうか。そうだとしたら、人間の行いに責任があるのだろうか、あるいは悪が人間の行いに表現を見いだしているだけなのだろうか。人間は善と悪の両方を自由に行えるのだろうか……」と。
 この対話は次のように終わっています。
 「私は言う。人間は望むことは何でも自由に行うよう生まれついているのだ」と。
 ここで思い起こされるのは、エラスムスが、ルターとは違って、「自由意志」に賛同の立場をとったことです。今、示した古いブルガリアの文献では、「自由意志」の訳語はヒューマニズムの概念――個人が善悪を選択し、みずからの人格を形成するための個人の無限の可能性――に近くなっています。
 この関連で、私は、「それ(事物や世界)は神の出現に先立っている」と述べた老子を思い起こします。老子のこのような思想は、善悪の問題を考える文脈のなかでは、どのように解釈されるでしょうか。

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