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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 世界市民の要件――「共同体」と…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  「戦争の世紀」――二十世紀のもつ意味
 池田 イギリスの思想家アイザイアバーリンは、「人類が互いに容赦なく殺し合いを続けたという点では、二〇世紀に匹敵する世紀はない。これは今では、憂鬱な常識である」(『バーリン選集』4、福田歓一河合秀和田中治男松本礼二訳、岩波書店)と述べました。
 この彼の言を待つまでもなく、十九世紀までとは比較にならないほど、量的にも質的にも“極端化”した形で悲劇が繰り返されてきたのが二十世紀でした。
 テヘラニアン たしかに、二十世紀は、人類史上もっとも血なまぐさい世紀でした。それまでの世紀とは異なり、二十世紀は大量の人々の死が、最先端の科学技術と大量殺戮の武器を使って緻密にデザインされました。
 二度にわたる世界大戦をはじめ、朝鮮半島や湾岸地域などにおける紛争、またホロコーストやカンボジアの大虐殺等々――枚挙にいとまがありません。
 一九〇〇年以降、二百五十以上の戦争が起こり、約一億人の兵士と一億人の市民が命を落としました。
 軍人の犠牲者数だけを見ても、十八世紀は人口百万人につき毎年五十人の犠牲者が、また十九世紀には六十人の割合で犠牲者があったのですが、二十世紀はなんと人口百万につき四百六十人という数字が発表されています。
 はたして人類は、二十一世紀を平和な生活をいとなめる世紀に転換できるでしょうか。
 兵器の命中率と殺傷率の“進歩”だけが進むならば、さらに血なまぐさい世紀になるかもしれません。平和の実現を妨げるやっかいな問題は、まだ数多く残ったままなのですから。
 池田 不毛なイデオロギー対立からようやく抜けだした現在もなお、悲劇を生みだす「分断」のエネルギーの勢いは収まっていません。
 「民族」という言葉が現実から離れて独り歩きし、それが絶対的な偶像にまで祭りあげられてしまった結果、旧ユーゴスラビアやルワンダをはじめ世界各地で目をおおうばかりの惨劇が起こりました。
 残念ながら、三十年も前にバーリンが指摘した「憂鬱な常識」は決して過去のものではないのです。
 テヘラニアン 嘆かわしいことです。戦争だけでなく、飢餓や栄養失調、疫病などによって、何百万もの人々が世界から忘れ去られたまま、ゆっくりと死に追いやられている現実があります。
 こうした「構造的な暴力」の存在も含めると、二十世紀は先に私が申しましたように「デザインされた死の世紀」と名づけることができるのではないかと考えます。
 一方で、二十世紀は「科学技術が壮大に発展した世紀」でもあります。この面での発展の速度は、残念ながら人間の精神面での進歩を追い抜くものでした。湾岸戦争で明らかになったように、人類は想像を超えた「死」の技術や武器を開発してしまった。その進歩は、私たちの道義上の想像をはるかに超えているのです。
2  悲劇の歴史から教訓を学びとる
 池田 同感です。
 しかし一方で、明るいニュースもあります。
 世紀の変わり目を前に、長年の厳しい対立関係から脱却し、新たな一歩を踏みだそうとしている地域が出てきているのです。
 半世紀以上にもわたって分断状態に置かれてきた、韓国(大韓民国)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首脳会談が、この(二〇〇〇年)六月に初めて実現しました。
 朝鮮戦争の休戦(一九五三年七月)以来、閣僚レベルや首相同士の対話は断続的に行われてきましたが、南北双方の最高指導者が直接対話をする機会は絶えてなかった。それが今回、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記による歴史的な会談が平壌で実現し、「南北共同宣言」を合意するまでにいたった。
 南北首脳会談の実現は、私も十五年前から「平和提言」など、さまざまな機会を通じて何度も訴えてきただけに喜ばしいかぎりです。
 朝鮮半島(韓半島)の平和のためにも、北東アジアの安定のためにも、共同宣言に盛り込まれた金総書記のソウル訪問が早期に実現し、首脳間の直接対話が定着していくことを強く望むものです。
 テヘラニアン 本当に画期的な会談でした。
 池田 北東アジアにおける平和の実現は、二十一世紀の焦点です。長年、解決が困難とみられてきた、この地域が平和共存へ向けて大きく前進することができれば、紛争や対立に苦しむ他の地域にも平和への波動が広がっていくと私は考えるのです。
 「敵対」から「対話」へ、「対立」から「共存」へ――時代の方向性を確かなものにしていくためには、社会や人々の生き方を左右してきた価値観を根本的に見つめ直していく必要があります。
 その第一歩となるのが、悲劇の歴史を真摯に見つめ、そこから教訓を学びとる作業ではないでしょうか。
 テヘラニアン 私も、そう思います。
 「人間が学習する」という行為には、少なくとも三つのタイプ、①付加的学習、②反復的学習、③変革的学習、があると私は考えます。
 「付加的学習」の典型は、知識が加速的に蓄積される科学技術上の学習です。
 「反復的学習」は、世代から世代へ伝えられる道義上の学習です。これは新しい世代が、それぞれに悩み苦しむことによって学び直さねばなりません。しかしそれだけでは戦争が再発し、次の世代も同じ過ちを繰り返すおそれは残ってしまうのです。
 池田 「反復的学習」は、積み重ねられるものではない。ゆえに、それぞれの世代が自分自身の痛みや苦しみを通じて、自分自身の文化や社会の古い価値を再発見し、その時代と環境にあった形につくり直していかねばならないというわけですね。
 テヘラニアン ええ。これとは対照的に、「変革的学習」は過去の全世代が学んだことを総合し、融合することによって大跳躍をとげる精神的指導者のインスピレーションを通して、ときどきもたらされるものです。
 そうした道義上の大躍進は、科学技術の世界で言うところの「パラダイム転換」に値するほどのブレークスルー(突破口)の意義をもちます。そして、この大躍進はその後、数世紀の間、社会に影響をあたえ続け制度化されていくものなのです。
 ゾロアスターから釈尊、孔子、老子、アブラハム、モーセ、イエス、さらにはムハンマド、日蓮、ガンジーまで、私たち人類の偉大な師の思想は、そうした性質をもった教えと言えます。
3  人類の危機と精神の「枢軸時代」
 池田 その指導者の多くは、ドイツの哲学者カールヤスパースが言う「枢軸時代」――すなわち、紀元前八百年から紀元前二百年にいたる数世紀に集中して登場していますね。
 この時代には、インドでウパニシャッドの哲学が成立し、釈尊が誕生したのをはじめとして、中国でも孔子や老子など多くの思想家が登場しています。
 また、イランではゾロアスターが善と悪との闘争を説き、パレスチナではエリアからイザヤ、そして第二イザヤにいたる多くの預言者たちが出現しました。
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。
 また当時、ギリシャにおいては、ホメロスの二大叙事詩が書かれ、ヘラクレイトス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者や、アルキメデスなどの科学者も活躍しました。
 池田 ヤスパースは『歴史の起源と目標』の中で、「この時代に実現され、創造され、思惟されたものによって、人類は今日に至るまで生きている」(『ヤスパース選集』9、重田英世訳、理想社)とさえ述べています。
 私も、ほぼ時を同じくして“精神の巨人”たちが現れたことに深い理由を感ぜずにはいられません。なぜ、同時代にこれだけの人格が次々と生みだされたのか――。
 「人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識した」(同前)時代が要請したものではないかとヤスパースは論じています。時代の激動にともなう精神変革があればこそ、のちのちまで強い影響をあたえる思想や宗教が生みだされたと言えるでしょう。
 しかし、「第一の枢軸時代」の生みだした影響力はすでに失せ、時代は混迷の度を深めています。
 だからこそ私は、人類は今一度、精神面での深い変革をなしとげる挑戦を開始し、人間共和の地球社会を創出する確かな思想的基盤を真剣に模索せねばならないと強く感じるのです。
 テヘラニアン まったく同感です。
 その取り組みは急務となっています。
 池田 この困難をともなう模索を進めるにあたって、ハーバード大学のシセラボク博士が示唆的な発言を行っています。
 ボク博士は、“いかなる人々も価値観は共有できる”という前提に立つことが大切であり、「価値の探求についていえば、新しい価値観を探る必要はない。既に存在する価値観をどう再評価し、深めていくかが肝要である」と主張しています。
 また、「価値は実生活に活用されて初めて有用であることも強調しておきたい」と述べていますが、重要なポイントでしょう。
 こうした「普遍性」や「実際性」などの観点をふまえながら、さまざまな思想哲学の有用性を再検討することは、むだではないと思います。
 テヘラニアン その意味から現代の思想哲学を俯瞰してみると、主として三つのグループに分けることができるでしょう。
 一つは、人間の進歩を促進するには、現代の科学技術が人権と民主的参加の世界倫理を形成するための必要十分な基盤をあたえるだろうと、主張しているモダニストたちです。彼らは、宗教が提示する世界観は取るにたりないものであり、最悪の場合、人間の進歩にとって障害になると考えています。
 二つめは、宗教的であれ、世俗的であれ、目的史観の妥当性を否定するポストモダニストがいます。彼らはすべての目的論的な歴史哲学は、現実的にも潜在的にも意識的にも無意識的にも、支配と搾取を目的とする覇権主義的思想であると考えます。
 池田 こうしたポストモダニストのなかには、伝統的な宗教やイデオロギーの虚構を暴き、非神秘化を試みる懐疑的な精神をもった人たちがいますね。

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