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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 精神の「内発性」――人類を照ら…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  変革のダイナミズムこそ文明の生命
 テヘラニアン 私が所長を務める戸田記念国際平和研究所は、創立(一九九六年二月)以来、おかげさまで世界中の多くの方々から、ご理解と応援をいただいております。
 池田 先ごろ(一九九八年十二月)は、博士のおられるハワイの地元紙「ホノルルウィークリー」でも研究所の活動が大きく報道されたそうですね。
 多民族が共存するハワイは、人々の平和に対する意識も高い。
 テヘラニアン ええ。三ページにわたり、特集が組まれ紹介されました。反響の大きさに驚いています。見出しには、「地球の平和――戸田研究所は世界の人々をこの共通の基盤へ向かわせる役割を担っている」とありました。
 こうした例に見られるように最近、世界平和を願う心ある人々は共通の方向へ向かって動いており、大きな流れができつつある気がします。
 池田 そうですね。国連総会は西暦二〇〇一年を「文明間の対話年」と決議したことは先にふれましたが、さらに二〇〇一年から二〇一〇年までを「世界の子どもたちのための平和の文化と非暴力のための国際の一〇年」と決定しています。
 二十世紀文明が、あまりに暴力と殺戮を繰り返してきたゆえに、二十一世紀は“平和と非暴力の時代”に転換したい、との国際社会の切実な意思が感じとれます。
 テヘラニアン 二十一世紀の文明が、どのような「価値」や「哲学」を基盤とするかによって、人類の未来図はまったく別のものになるでしょう。
 池田 そのとおりです。この対話を通して、そのめざすべき方向性に光を見いだせればと願っています。
 そこで、「文明」の本質について引き続き、語りあいたいと思います。
 テヘラニアン それは、先に論じた「文明」の定義そのものにもかかわってくる問題ですね。
 私は、文明を「存在論」と「認識論」と「人間行動学」とが多かれ少なかれ首尾一貫している、一つの体系であるととらえています。
 「存在論」は生命の始まりと終わりに関する認識をあたえ、「認識論」は知識と学問に関する理論をあたえ、「人間行動学」は行動の規範をあたえます。文明においては、この三つが何らかの形で有機的な関係を形成しているのです。
 その意味で、文明間に一定の差異があるのは当然だとしても、あくまで私の立場は文明や文化そのものに優劣の序列をつける文明観を、いっさい認めるものではありません。
 池田 分かります。今、博士の言われた「存在論」、すなわち生命の始まりと終わりをどう認識していくかという問題は、非常に重要です。
 テヘラニアン もちろん、あらかじめ想定された指標に沿う進歩――つまり、物質面や道義面の進歩という点において、一種の類型論をもち出すことは可能でしょう。
 しかし文化と文明はすべて、有限、はかなさといった人間の普遍的状況に順応しながら、その状況を変革し乗り越えようとする人間のイマジネーション(想像力)の所産であると、私は思うのです。
 いかなる文化、いかなる文明でも、それぞれが独自の形でその文化や文明に属する人々に、自己超越の道、不屈の精神、外的な力に対する抵抗力をもたらすのです。
 池田 限りある自己を乗り越えていく想像力、またその所産としての変革のダイナミズムにこそ文化や文明の生命があるという見解に、私も全面的に賛成です。
 テヘラニアン それぞれの文化、それぞれの文明が、それ独自の生態的、歴史的状況のなかで「生の神秘」に向きあっているのです。
 だからこそ、それぞれの違いは人間の天分の多様な表れとして尊重され、讃美されるべきです。文明の次元の高低を論じるのは、人類史の展開におけるもっとも重要な多様性の価値を見失っているのです。
 それもまた、「文化の自己讃美主義」の表れにほかなりません。
 池田 まったく同感です。
 たがいの差異が対立を呼ぶというよりも、自分たちのほうが優れているという偏見が、対立をまねく真の要因なのではないでしょうか。
 そのためにも、「文明の衝突」か「文明の共存」かという二者択一的な考え方そのものを、まず見直す必要があります。
 なぜなら、かりに「共存」を実現したとしても、それがたんなる横並び的な「並存」であれば、人類にとって有益であるとは言いきれないと思うからです。
2  文明間の創造的関係生む「開かれた対話」
 テヘラニアン 私の見解も、まったく一致しています。
 前にも少しふれましたが(第五章)、人間の思考はややもすると二分法におちいりやすいものです。光と闇、善と悪、白と黒といった両極端によるのは、世界の認識方法としては単純明快であっても精緻さに欠ける方法であり、議論です。
 生命はもっと格段に複雑なものです。光と闇、善と悪、白と黒といっても、その間には、まことにさまざまな段階があります。その微妙な色合いや意味合いを認識するには、より柔軟な思考の枠組みが必要になります。
 中国の哲学にある「陰陽」という考え方は、単純きわまる二分法を超克する道を示唆しています。その道に従うと、もはや“二つのうちの一つ”ではなく、双方の観点から物事を考える方向へと導かれるのです。そこでは、光と闇、善と悪、また生と死の普遍的な相互依存性が示唆されています。問題は区分線をいかに引くかではなく、その調和をいかにたもつかにあると言えましょう。
 池田 陰陽にかぎらず、東洋思想では、西洋的な二元論とは異なる世界観が見られます。
 仏法でも「善悪一如」と説かれています。これはたんに善と悪との相互依存性を論じたものではなく、善にも悪にもなる人間事象をいかに乗り越えるかという点に主眼が置かれているのです。
 文明の出合いそのものが悪いのではない。問題は、それが実際にどのような結果をもたらすかにあるのではないでしょうか。
 哲学者のカールポパーは、異なる文明の接触から起こりうる危険は疑いもなく大きいが、しかしそれは同時に文化的創造性の源泉となりうると論じました。(『イスラーム文化』井筒俊彦、岩波文庫、参照)
 事実、歴史を振り返ってみれば、シルクロードを通じての中国文明とインド文明の関係や、地中海におけるギリシャ文明とイスラム文明との関係といったように、文明の接触が豊かな文化を開花させ、新しい価値観を生みだす契機となる例は数多く見られます。
 テヘラニアン おっしゃるとおりです。
 文明間の出合いには、破壊的な関係だけでなく創造的な関係もありえます。おそらく、その両方と言ってもよいでしょう。
 池田 異文明の接触によってもたらされるエネルギーを、真に創造的な方向へと生かせるかどうかはひとえに双方の努力、まさに「対話」にかかっている、と私は思うのです。
 カールポパーは、「ヨーロッパ文化の起源」(『開かれた社会の哲学』所収、長尾龍一訳、未来社 )の中で、ギリシャ文明が地中海文明、ヨーロッパ文明へと成長発展した原因が「文化衝突」にあると指摘し、複数の文化が接触するなかで、人々は長期間にわたって当然と思ってきたみずからの生活様式や習慣が、じつは「神の命じたものでも、人間性の一部でもない」と悟ってきた。それが歴史なのである――と論じています。
 このように、自分の属する文化や文明が、決して唯一無比なものではなく、人間の力で左右できるのだと気づくことによって、人類史は発展してきたとも述べています。
 異なる文明と接触するなかで、みずからの存立基盤を他の文明の枠組みを通して冷静に見つめられるという意味では、たがいの「差異」もよき刺激となるのです。そうした接触をグローバル(地球規模)に積み重ねていくところに、新たなる文明の展望も開けてくるのではないでしょうか。
 テヘラニアン 「文明間の対話」がめざす目的は、まさしくそこにあります。
 プラトンの対話篇では、真理とは、熟慮を尽くした対話によって、意見の対立と収斂を経由して探求されるものであるとしています。
 ヘーゲルとマルクスの弁証法でも、テーゼ(定立)とアンチテーゼ(反定立)から、正反対のものの統合、ジンテーゼ(総合)へといたることが進歩であり、目的とされているのです。
 池田 敵か、味方か――といった単純な図式化はたんに不正確であるだけでなく、人々の心の中に偏見を植えつける、まことに危険なものです。
 情報化社会を迎えている現代にあってなお、異なる文化や文明のイメージばかりが先行し、ときには歪められ拡散されるなかで、実像が正しく伝わらないという状況が根強くあります。それだけに、人間同士が直接会って話しあう「対話」、そしてたがいの文化、文明というものを理解しようとする慎重かつ謙虚な姿勢が強く求められるのです。
 テヘラニアン 同感です。
 私たちの認識は、ふつうは空間の三次元(縦、横、奥行き)と時間を合わせて、四次元にすぎません。ところが、物理学の「ストリング」理論は、さらに六次元まであることを数学的に示しました。
 また、理論物理学者のカクミチオ氏(ニューヨーク市立大学教授)は、著書『ハイパースペース』の中で、実体を十次元まで認識するにいたっています。
 私たちは四次元にとらわれるゆえに、それ以外の次元の存在に気づかない。ですから、認識ということに関しては「謙虚」であることが、何よりも賢明であると思うのです。
 池田 そうした謙虚で開かれた心にもとづく「文明間の対話」が行われることが、双方の対立を超え、より高い次元への跳躍を可能にするカギとなると思います。
 私が、「衝突」でもなく「並存」でもない、第三の道――「文明間の対話」による共存共栄を提唱するゆえんは、その点にあるのです。
3  「ミリンダ王の問い」が示唆するもの
 池田 ここで、歴史における事例をいくつか顧みたいと思います。
 「文明間の対話」というテーマを聞いて、私が第一に想起するのは、『ミリンダ王の問い(ミリンダパンハ)』という有名な仏教の古典です。
 これには、今から二千百年ほど昔(紀元前二世紀後半)、西北インドを治めていたギリシャ人の王ミリンダと、仏教僧ナーガセーナによる「対話」が収められています。
 当時は、アレクサンダー大王の遠征を契機として東西の文明(インド文明とギリシャ文明)が出合い、たがいに触発しあった時代でありました。
 テヘラニアン この対論は、西洋的理性と東洋的英知の魂の交流――ともいうべき有名なものですね。
 池田 ええ。特筆すべきは、東西の文明を代表した両者の対話の内容もさることながら、両者が「王者の論」ではなく、あくまで「賢者の論」を貫いたところにあるといえます。
 対話を始めるにあたって、仏教僧ナーガセーナは、ミリンダ王に呼びかけます。
 「大王よ、もしもあなたが賢者の論を以って対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論するでしょう。しかし、〔大王よ〕、もしもあなたが王者の論を以って対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論しないでしょう」(『ミリンダ王の問い1』中村元早島鏡正訳、平凡社)
 そこでミリンダ王は、「賢者の論」と「王者の論」の違いを問いました。
 ナーガセーナは、答えます。
 「賢者の対論においては解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることがありません」「大王よ、しかるに、実にもろもろの王者は対論において、一つの事のみを主張する。もしその事に従わないものがあるならば、『この者に罰を加えよ』といって、その者に対する処罰を命令する」(同前)と。
 ミリンダ王は、ナーガセーナの言葉が意味するところを深く理解し、両者の長く実り多き「対話」が始まったのです。
 テヘラニアン 現代にも通じる大切な視点が、このエピソードには盛り込まれていますね。
 「王者の論」が力によるのに対して、「賢者の論」は対話によると言えましょう。
 「力」と「対話」という、二つの相対する極点の本質的な違いを示唆している「ミリンダ王の問い」の話は、他の文化的伝統のなかにもいくつか類例が見られます。
 「力」は銃剣によって得られますが、たとえ王であっても、より永続的な支配を確立するには、「対話」を用いざるをえないのです。
 この点はまた、プラトン、アリストテレスから、ニザームアルムルク、ファーラービー、イブンルシュド(アヴェロエス)、マキャベリ、ホッブズ、ロックやルソーなど、さまざまな政治哲学者が論じてきたところでもあります。
 池田 しかし残念ながら、こうした考え方はいまだ有力な位置を占めるまでにはいたっていません。
 私は、ナーガセーナの語った「賢者の論」という象徴的な言葉に、時代を超えた普遍的な対話の要件、つまり、理性的で実りある対話を成立させる基本が示されていると思います。
 それはまた、平等で自由な対話を根本としてきた、釈尊以来の仏教者の姿勢でもありました。
 力による押しつけでなく、「賢者の対話」で道を開く以外にない――人類史に輝くその偉大な模範を、はるか二千年以上も前に、ギリシャとインドの先哲が示したのが、まさにこの「ミリンダ王の問い」であったと私は思うのです。自由で平等な言論が民主主義をつくる
 テヘラニアン その「ミリンダ王の問い」の現代的意義を考えるうえで示唆的なのは、ドイツの哲学者で社会学者でもあるユルゲンハーバーマスが唱える「コミュニケーションの道理」です。
 彼は、民主主義の発展の基礎としてこの道理を非常に重視し、「実際的道理」「方便的道理」「批判的道理」といった他の道理と区別しています。
 「実際的道理」は、それぞれの文化的伝統のなかで、いわゆる「常識」と呼ばれるものです。しかしながら、この道理は普遍的なものではありません。
 ある文化における常識が他の文化では非常識になるということが、現実にあるからです。
 卑近な例をあげれば、西欧ではレストランやホテルでサービスをうけるとチップを渡すのが常識ですが、日本で同じことをするのは非常識になります。
 西欧の資本主義国では、サービスは商品と同様であり、それに対しては相応の代金を支払わねばなりません。ところが、日本ではサービスは礼遇なのであり、それに対しチップを支払うのは、お金には代えられない価値の品位を下げることになりますね。
 しかし、相反するこの二つの「実際的道理」は各文化の事情のなかでは、それぞれ理にかなったものなのです。
 池田 つまり「実際的道理」とは、ある限定された集団のなかでのみ通用する道理ということですね。
 テヘラニアン そのとおりです。
 二つめの「方便的道理」は、これよりも普遍的なものです。
 この道理は、ある仕事や目的をもっとも効率的になしとげるためにはいかにすべきかという、合理的な計算にもとづくものです。
 たとえば科学技術などは、この「方便的道理」の手段であると言えます。そして、この道理においては社会と個人を含む全世界が、特定の目的を達成するための操作の対象と見なされます。
 さらに、三つめの「批判的道理」は、初めに一定の規範的考えを構築し、その規範とくらべるかたちで現在の状況を批判するものです。
 すなわち、まず理想とするモラルやイデオロギーを打ち立て、その理想の世界観から現実の世界の状況を批判するのが、この道理であると言えます。
 池田 みずからの構築した理論やモデルを絶対視し、現実がこれに合致しないと批判を繰り返す――こうした例は、現代に数多く見受けられますね。
 二十世紀は、とくにイデオロギーによる呪縛が数々の悲劇を生みだしてきました。それは、ギリシャ神話に出てくる「プロクルステスのベッド」の逸話そのものの状況を呈していたと言えましょう。
 このギリシャの伝説的強盗は、旅人を自分のベッドにおびき寄せては、ベッドに縛りつけた。そして、ベッドの大きさに合わせ、旅人の背丈が短いときは引き伸ばし、長いときは足や頭を切り落としました。
 同じく、人間が生みだしたイデオロギーや理論が逆に人間を規定し、人間と社会を荒廃させ圧殺しゆく“凶器”となってきたのです。
 テヘラニアン そのような忌まわしい悲劇は、断じて繰り返されてはなりません。
 この「批判的道理」とは対照的に、ハーバーマスの言う「コミュニケーションの道理」は、そうした現実を束縛する理想を初めから立てることはしません。あえて言えば、彼はこの道理を通して「理想的な言論社会」の構築を志向しています。
 これは、力による強制がなく、意思疎通のアプローチに平等性が確立され、対話に参加する人々全員が、コミュニケーションの手法に通じている社会のことです。
 もちろん、現実の世界には、そのような理想にかなった社会はありません。しかし、私たちは意思の表現における自由と平等を尊重することによって、それに近づくことはできるはずです。
 実際、私たち二人が空間や文化の障壁を超えて、このように対話していること自体が、「ミリンダ王の問い」における「賢者の論」に通じ、ハーバーマスのいう「コミュニケーションの道理」の具体例であると思います。
 池田 ハーバーマスは、「誠実な話し手は、自分の発話行為が真面目であるという暗黙裡に含意された条件でもって自らが引きうけた帰結に対して責任をもつ、という義務を負う」(『批判理論と社会システム理論』佐藤嘉一山口節郎藤沢賢一郎訳、木鐸社)と述べていますね。
 博士の指摘されたとおり、たがいが「誠実さ」と「開かれた態度」をたもつことが、真に対話を行ううえでの不可欠の要件であると言えるでしょう。
 その意味で、ハーバーマスが「支配なき討論」の実現をめざして提示した所論は、コミュニケーションをもっぱら戦略的な手段としてとらえる発想を、根底から問い直したものと評価できると思います。

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