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第六章 「宗教的精神」の蘇生――価値を…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  “路傍の草花”にも連帯感をもてる心
 池田 現代は「宗教的精神」が衰退しつつある時代だと思います。とくに若い世代に、そうした傾向が顕著であると言われますが、イスラム諸国ではどうでしょうか。
 テヘラニアン そうですね。「宗教的精神」についていえば、むしろ青年たちのほうが熱心にイスラムの教えを学んだり、イスラムの伝統的習慣を重んじていると思います。その一方、イランでは聖職者が権力を保持し、みずからの足場を固めようとすることへの懸念もあります。
 池田 欧米に留学したイスラム諸国の青年が、そこで体験した現代文明の弊害に失望して、帰国後、イスラムの伝統に回帰するという例も少なくないそうですね。
 欧米や日本では、明確に「宗教的精神」は枯渇してきています。それとは裏腹に非常に即物的に、オカルト的(神秘的、超自然的)、迷信的なものにひかれる青年が多くなっているという指摘もあります。
 テヘラニアン そう思います。皮肉にも、科学技術の進歩に歩調を合わせるかのように、呪術や迷信を信じる風潮が広まっているのです。宗教的制度への確信が薄らいでいる一方で、精神性そのものへの希求が大きくなっているようにも思われます。
 池田 科学技術によって、人類は「無知の暗闇」を駆逐し、光にあふれた未来を手に入れるはずであった。
 しかし、その行き着いたところは、ナパーム弾(焼夷弾の一種)の光であり、原爆の閃光だったのです。また、駆逐されたのは暗闇ではなく、数限りない無辜の民衆でした。
 すべてを照らす希望の光ではなく、すべてを消滅させる悪魔の閃光――それは、暴力の暗闇の極みにほかなりません。
 テヘラニアン そのとおりです。二十世紀の歴史の悲劇です。暴力が増大しているなか、人間精神が行き場を失っていると言ってよいでしょう。
 池田 技術とは、何らかの価値を生むための「道具」です。それが、悪魔の閃光を生み、現在では情報すらも消費する、巨大な消費社会をつくりだしてしまった。
 テヘラニアン 情報を「消費」する技術といえば、たとえばテレビのようなものですね。テレビやコンピューターなどによって、私たちは多くの情報を得ています。
 しかし、その情報によって本当に賢明になり、価値ある生き方が創造されているかどうかは疑問です。ただ断片的な情報を消費するために道具や技術を使っている場合が、少なからずあります。
 池田 現代は、何かを「つくり出すため」ではなく、何かを「消費するため」に技術を使う時代になっている。さらに、技術自体をも消費する時代になってしまったのではないでしょうか。
 テヘラニアン 道具や技術が日々新しくなるような状況では、われわれはそれを使うというより、それを次々と購入すること、すなわち消費することに没頭するようになっていきます。技術社会は、技術それ自体を消費する動物のように見えます。
 池田 そうです。「消費する」とは、「価値を減らす」ということでしょう。
 買ったばかりの商品はその値段の分だけ、さらにはまだ皆がもっていない珍しいものならば、所有する優越感の分だけ価値があると感じる。しかし、それが古くなったり、皆がもち始めると価値がなくなり、新しい「価値あるもの」を買いたくなる。そこには、価値を創造する喜びはありません。
 「宗教的精神」とは、その逆ではないでしょうか。それは「価値を創造する魂」と言い換えてもいいでしょう。「宗教的精神」とは、路傍の草花にも、ときには何の変哲もない石にも、ともに今を生きているものとしての連帯感をもてる心です。また、決して出会うことのないような地球の反対側の人の幸福をも、真剣に願える心です。
 テヘラニアン ご指摘のとおりです。人間の精神はその働きとして、より大きな価値を生みだしますが、物を消費することは、価値を減退させることです。
 池田 それに対して「宗教的精神」とは、虚無から未来を、絶望から希望を創造する精神の力です。
 冷笑主義者には、価値を紡ぎだす魂はない。その目には、すべてが無や無価値としか見えないからです。
 科学は人間の外の世界を明るくしましたが、内の世界、すなわち人間の心は暗闇のなかにあります。
 むしろ、人間の心を明るくするのは、哲学であり、「宗教的精神」なのではないでしょうか。
 テヘラニアン 同感です。その「宗教的精神」とは、ある特定の宗教や宗教制度に対する信仰心というより、むしろもっと普遍的な精神のあり方、生きる姿勢と言えるでしょうか。
2  絶望を希望に転換する勇気
 池田 そのとおりです。残念ながら、そうした「宗教的精神」の衰退はますます進行しています。
 この危ぶむべき進行にどう対処すればよいのか。幸いにも、私たちは歴史にその処方箋をもっています。
 テヘラニアン その処方箋の一つが、仏教やイスラムですね。すでに話しあったように、両者はともに迷信や呪術的な伝統に対する、精神覚醒の運動でした。
 池田 そうした次元でいえば、イスラムという言葉の意味は、一般に「神に絶対的に帰依すること」と聞いていますが、それは著名な神学者パウルティリッヒが「宗教」について定義したように、“存在に通じる概念の根源に、究極的にかかわること”をめざした、と言えるかもしれません。
 テヘラニアン ええ。厳密にいえば、それはすべての存在への「積極的かつ完全なるかかわりとあわれみ」を意味すると言えましょう。それは積極的平和、すなわち愛と勇気を合体させた状態を意味するのです。
 池田 前に、イスラムは「宗教改革」であったと語りあいました。
 ムハンマドは「積極的に」と強調することによって、当時の呪術的な部族の宗教、またユダヤ教やキリスト教の信仰への疑念を表したということでしたね。
 テヘラニアン ええ。ユダヤ教、キリスト教への疑念として、『コーラン』の次の言葉がそれを物語っています。
 「我々(=ムスリム〈イスラム教徒〉)が誠の限りをつくしておつかえ申すのはアッラーのみ」〔二一三三〕(前掲『コーラン』)
 また、呪術的な多神教に対して、ムハンマドは徹底的に批判をしています。
 ところで、会長は今、パウルティリッヒに言及されました。それは、私の心に懐かしい「ティリッヒ先生」の思い出を蘇らせてくれました。じつは、私の恩師なのです。私は、彼からすべての偉大な精神的伝統に共通する宗教的精神について多くを学びました。
 池田 よく存じています。ティリッヒ博士は、ナチスに追われてアメリカに亡命しています。テヘラニアン博士がティリッヒ博士から直接学ばれたのは、ハーバードの大学院生時代ですね。偉大な師をもつことは、人間にとって最高の宝です。
 テヘラニアン 本当にそう実感します。池田会長にも戸田城聖第二代会長という師匠がおられた。ともに、すばらしい師との出会いがあった――。
 池田 ティリッヒ博士の著した『生きる勇気』は、アウシュヴィッツとヒロシマ以後を生きる私たちに、希望をあたえてくれました。不朽の名著であり、人類の財産です。
 テヘラニアン そのとおりです。ティリッヒ博士は同書の中で、現代の苦悩と絶望を真正面から見すえながら、「それにもかかわらず」(大木英夫訳、『ティリィヒ著作集』9所収、白水社)生きていこう! と訴えています。
 池田 「にもかかわらず」――ドイツ語で“トゥロッツ”――それが「生きる勇気」のキーワードでした。その態度は、二十世紀を代表する名著『夜と霧』の著者、ヴィクトルフランクルにも通じますね。別の著書『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男松田美佳訳、春秋社)の表題のとおりです。
 テヘラニアン アウシュヴィッツをみずから体験し、人間の悪の面をいやというほど味わいながら、フランクルは「それでも」人間を信頼しよう、人生を肯定しようとするのです。
 池田 その態度は、グラムシが座右の銘としている「知性においては悲観主義、意志においては楽観主義」(ロマンロラン)という言葉にも通じます。
 「意志における楽観主義」とは、言い換えれば不屈の勇気と言えるでしょう。現実の深い闇を直視しながら、それでも前進しようとする勇気です。
 テヘラニアン 全面的に賛成です。それらの人々はまったく同じ志向性、同じ姿勢をもっています。基本的に彼らは、死と絶望の深淵を見る一方で、それを生と希望に転換したのです。
 池田 現実の深淵を見ようともせずに、欲望の達成と快楽だけを幸福といってはばからない、薄っぺらな楽観主義とはまったく異なります。
 人類がこれほどの悲惨を起こしてしまったのは、たんにヒトラーやナチスだけが問題であったのではない。ティリッヒは、民主主義もいつしか体制順応主義に堕落し、「冷笑主義」「無関心」「無感動」の虚無に飲みこまれる可能性がある、と指摘しています。
 そうさせないためにも、人間存在そのものの奥底に横たわる深い闇を見すえながら、「にもかかわらず」生きていこう――そういう強靭な意志が『生きる勇気』では語られています。
3  宗教は存在の根源への「究極的かかわり」
 テヘラニアン ハーバードの大学院生だったころ、私はよくティリッヒ博士の講義を聴講したものです。
 宗教を、存在の根源への「究極的かかわり」とするティリッヒ博士と同様の認識を、私ももっています。宗教の本質についてのその定義は、ご指摘のとおりイスラムにあてはまります。
 『コーラン』は“アルディーンアルクワッイン”つまり「永遠不変の宗教」という言葉で、その「普遍性」を表しています。
 池田 さらに一言つけくわえさせていただければ、私はムハンマドが「アブラハムの時代に帰れ」と主張したのも、いわゆる“原理主義的”な先祖返りを意図したのではないと思うのです。より普遍的である「宗教的なもの」を模索していたのではないでしょうか。
 テヘラニアン 「宗教的なもの」については、会長もハーバード大学での二回目の講演(一九九三年九月、「二十一世紀文明と大乗仏教」。本全集第2巻収録)で、その重要性を指摘されていましたね。それは、先ほどおっしゃった「宗教的精神」につながるものです。
 池田 仏教には「仏母」という考えがあります。すべての仏を仏たらしめる根源の教えのことです。これも、まさしく「普遍性」「根源」を探究しようと
 する志向性の表れと言えるでしょう。
 ともあれ、「究極的かかわり」といえば、なにか狂信的、排他的なイメージをあたえるかもしれません。
 しかし、排他的な狂信は決して「究極的」ではありえません。排他的な狂信は、部分的で偏狭なかかわりであり、感情的なかかわりでしかない。しかも、人間存在の根源へのかかわりではなく、利己的な目的へのかかわりであり、ときとして、ナショナリスティック(国粋主義的)な目的へのかかわりとなります。
 「究極的」というのは、人間のもっている善なる性質、善なる力すべてをかけて、人間存在の根源を追求するということです。そうやって「人間とは何か」「自分は何のために生まれてきたのか」を求めることは、排他的であるはずはなく、きわめて人間主義的であると言えるでしょう。
 テヘラニアン 同感です。そして、会長が何度も言われているように、人間主義というのは、人間自身に限定されるべきものではありません。すべての自然と生物を含めた生命の大地にかかわるべきものです。

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