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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 永遠の生命の視座――意識と人生…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

前後
1  仏教の根本目的は貪・瞋・癡からの自由
 テヘラニアン 前(第三章)に池田会長は、ブッダ(釈尊)の出家の目的について非常に示唆的な話をされました。人間の「苦の原因」とは、貧困とか病気などの「悲劇的事態」だけではない。他者を、病人、老人などと差別的な眼で見てしまう「心」であるというのがブッダの発見であったと述べられました。まったくそのとおりだと思います。私なりに言い換えれば、ブッダの出家の目的、つまり仏教の根本目的は、たんに富とか健康とかを追求するというものではなく、三つの自由――「独善からの自由」、誤った認識、つまり「倒錯からの自由」、「貪欲からの自由」――に要約できるのではないでしょうか。
 池田 慧眼です。貪欲、独善、誤った認識――それを仏教用語では、貪瞋癡と言います。まさしく、仏教はそのような「歪んだ心の鉄鎖」
 からの自由を求める実践哲学なのです。「貪」とは文字どおり、「貪欲」。「瞋」とは瞋恚、怒りですが、ただの怒りというより他者の存在自体が気に入らず、それを否定しつくしてしまうような破壊衝動のことと言えるでしょう。これは「独善」に通じます。「癡」は無明とも言い、正しくものが見えず、転倒した理解を生じることです。何かが分からないということではなく、その何かに対して間違った理解をしてしまうことです。まさしく「誤った認識」のことです。仏教では、これらを「三毒」と言います。人間の心にひそむ根本的な悪です。釈尊はその人間社会の根源悪の解決のために、王宮をあとにしたのです。
 テヘラニアン 貪欲から離れている、独善から離れている、倒錯から離れている――この三つの自由はスーフィズムの理想でもあります。繰り返しますが、スーフィズムは仏教の影響を受けた思想運動でもあります。そしてそれは、独善的なイスラム教の合理主義、形式主義、法律遵守主義に対する反抗から始まりました。「独善からの自由」から始まったのです。当時、一部の独善的な神学者はシャリーア(神の法)を尊重するためには、法の条文を「言葉どおり」に遵守しなければならないとしていました。
 池田 それに対して、スーフィズムの「タリーカ(道)」の思想が強調したのは法の「精神」の遵守ですね。教えの言葉のみを教条主義的に執着して、その教えが何のために説かれたのか、その教えにこめられた「思い」は何かを忘れてしまっては「宗教のための宗教」となってしまいます。宗教は人間のためであるべきです。「人間」を忘れては、偏狭な狂信、独善的宗教となってしまいます。そうではなく、教えの意味するところに思いをはせることがスーフィズムの伝統ですね。
2  教条主義ではなく教典の精神を読む
 テヘラニアン そうです。教条主義と精神主義の対立は、ほかの世界宗教にもあることですが、イスラムでも絶えず続いてきた対立でした。「精神主義」に関して、十三世紀のスーフィーの詩人ルーミーが端的に表現しています。「我らはコーランの精髄を掴み、 骨は犬たちに投げてやった」
 池田 私どもの信奉する日蓮大聖人は、経典の文字の皮相に固執してやまない聖職者を「文字の法師」と批判しています。もちろん、経典の文字や言葉は、尊重すべきなのですが、表面の言葉だけに固執しすぎては、悪しき「原理主義」におちいってしまいます。翻訳の問題や時代による言葉の変化の問題などもあります。日本の仏教史において、その問題に着目し、むしろ、経文に説かれた意味、さらにそれを説かんとした仏の心を読むことを訴えたのが、日蓮大聖人でした。
 テヘラニアン それは正当な批判であり、正当な主張です。次の二番目の「倒錯からの自由」については、仏教と同じくスーフィズムは、プラトンやアリストテレス、また後世のカントがその認識論において行っているように、誤った認識と正しい認識を峻別します。
 ザヘール(表面的な真実)とバテン(内面の真実)の違いは、スーフィーの考え方の中心です。表面的真実を超えた内面の真実に近づくためには、長い精神的教育が必要です。
3  “みずからの本質を想起し無知の鎖を切る”
 池田 「誤った認識」「倒錯」とは、仏教の用語では、サンスクリット語で「ミティヤージニャーナ」、漢訳では「邪見」にあたるでしょう。正しい認識は「タットヴァジニャーナ」、漢訳では「正見」にあたるでしょう。「如実知見」ともいえます。ただ、哲学史的にいえば、プラトンとアリストテレス、カントでは「倒錯」と「正しい認識」の区分に違いはありますね。
 テヘラニアン そうです。そのことに言及する前に、まずプラトンの「認識論」から順を追って述べたいと思います。プラトンは『国家』の中の有名な「洞窟の比喩」で、人間の在りようを暗い洞窟内に縛られている囚人の状態に譬えています。洞窟内の囚人は、直接外界は見えず、外の光が洞窟の壁に映している「物の影」しか見えません。プラトンは、この洞窟内の囚人の感覚と、洞窟外の直接光による認識を区別します。
 池田 洞窟内の囚人は影しか見えないのに、その影を実体そのものと思って錯覚する。囚人はわれわれ現実社会のふつうの人間ですね。つまり、プラトンによれば、私たちがふだん見ている事物は「倒錯」にしかすぎないということになる。
 テヘラニアン そうです。この比喩でいう「拘禁」はすなわち「無知」を譬えたものです。「無知」から自身を解放してはじめて、人は「錯覚の鎖」を脱し洞窟外の清浄な光を経験できるのです。プラトンは、このような人を「哲人王」と呼び、彼の言う「理想の国家」を治めるのにふさわしい人だとしています。そしてこの「光」を、プラトンは「真」「善」「美」を包含する理想だと考えています。
 池田 いわゆる「イデア論」ですね。牢獄はわれわれの日常の領域を表し、太陽に照らされる世界が「理性の対象となる領域(ホノエートストポス)」を表します。イデア界です。
 テヘラニアン 私はプラトンの思想を、私たちの言語に内包される概念で説明しました。プラトンにおいて、感覚は人間の認識の二つの源の一対として、概念作用と対比されていますが、しかしプラトンの見解では、感覚より概念作用のほうが優れた源とされています。
 池田 概念とは私たちが頭の中で考える領域、「理性の対象となる領域」ですね。こちらのほうを、プラトンは優れていると考えていた。理性によってわれわれはイデア界を認識することができると。
 テヘラニアン そうですね。この見解をさらに補強するのが、プラトンの「人間精神論」です。
 池田 「想起(アナムネーシス)論」ですね。
 テヘラニアン そうです。プラトンによると、人間は別の世界――完全な認識が可能な世界――つまりイデア界からやってきたが、現世に下りてくるうちに自分の出自を忘れてしまった。ゆえに、「学ぶこと」は何か新しいものを得るというより、忘れたことを想起する過程であるというのがプラトンの考えです。ですから、彼の教育法は独特の対話術でした。そのなかでプラトンは学生たちに、彼らの精神が何を忘れているかを問うことによって学生を訓練したのです。
 池田 私もよく青年とソクラテスやプラトンをめぐって語りあうことが多いので、しばしばプラトンの著作をひもとくことがあります。今、言われた「想起論」は『メノン』に出てきますね。「魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてない」(藤沢令夫訳、『世界古典文学全集』14所収、筑摩書房)というプラトンの言葉にはいつも感動します。人間の可能性を信じた、すばらしい言葉です。厳密にいえば、プラトンの場合、「永遠の霊魂論」がその背後にあります。「霊魂」という実体的な“もの”の存在を認めない仏教の観点からみれば、多少の違和感はあるのは事実です。しかし、「想起論」を「霊魂論」ではなく、「人間のもつ無限の能力」を表現したものと考えれば、一転して、非常に示唆的なものとなります。
 テヘラニアン まったく同感です。私の理解では、人間の学習能力は無限です。だが私たちは、文化的な構成概念(概念成形)や五層からなる感覚体験(感覚)という網にとらえられてしまっています。私たちはより大きな理解へ進むために、洞察能力(精神的理解)や行動(試行錯誤)を必要とします。

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