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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 「寛容」と「多様性」――地球ル…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  「憎悪の連鎖」を断ち切るために
 池田 先に私たちは、時代を「対立」から「共生」へと転換するための機軸となる「対話」の精神について語りあいましたが、残念なことに、いまだ世界各地で紛争やテロが頻発しています。
 テヘラニアン ええ、この前(一九九八年八月)も、国際社会に大きな衝撃をあたえる事件が起きました。ケニアとタンザニアの米大使館を標的とした爆破テロに対し、アメリカがその報復措置と今後のテロ抑止を目的として、アフガニスタン領内の「テロ組織の訓練施設」とスーダンの「化学兵器工場」を攻撃したのです。
 池田 こうした事件は、多くの市民を巻き添えにしてきました。同じころ、カトリックとプロテスタント両陣営が和平に合意していた北アイルランドでも、子どもを含む双方の住民二百人以上が死傷した、卑劣な爆弾テロが起きました。こうしたテロという手段は、いかなる理由、どのような大義があろうとも、絶対に許されるものではありません。
 テヘラニアン まったく同感です。米大使館を狙ったテロ事件の実行犯は、イスラム過激派のグループとみられていますが、そのテロで命を失った人々の大半は、アメリカとの抗争には直接関係のない、ケニアとタンザニアの市民だったのです。一方、性急ともいえるアメリカの対応を見ると、世界のなかで富める側(アメリカ)と貧しい側(スーダンとアフガニスタン)との戦争が始まったという印象が強いのです。いわゆる“持てる側”の「北」と“持たざる側”の「南」との争いが、もう一つの形をとって現れている気がするのは、まことに残念なことです。これは、軍事力の行使で解決がつく問題ではありません。
 池田 たしかに、テロに対して“断固たる姿勢”を貫き、再発を防ぐことは最重要の課題でしょうが、その対抗手段として軍事力を用いることについては、あくまで慎重に考えていくべきだと私は思います。軍事力など「ハードパワー」による問題解決というのは、一時的には有効にみえるかもしれませんが、長い目でみていくならば、大きな禍根を残しかねない性質を有しているからです。
 テヘラニアン 私もそう思います。今日の国際社会が取り組むべき最大の課題は、おたがいにスローガンの投げあいをやめて、世界平和を脅かしている貧困、無知、強欲という人間にとっての真の問題を解決する道筋を考えることだと思います。
 池田 戦争や暴力が生みだす悲劇というものは、なにもそのときだけのものではない。憎しみが憎しみを呼び、暴力がまた新たな暴力をまねいてしまう――このことは、これまでの歴史が示している重い教訓と言えましょう。こうした悪循環、「憎悪の連鎖」を断ち切っていかないかぎり、真の意味での平和は訪れないし、人々の心に恐怖や不信がいつまでも消えずに残ってしまう。たがいのことを、初めから“対立する存在”としてとらえるのではなく、何が障害になっているのか、何が対立を生みだしているのか――それを見きわめる作業こそが、まず求められるのではないでしょうか。そこから、平和への道も浮かびあがってくるはずです。
 テヘラニアン そこで要請されるのが、「開かれた対話」の精神ですね。それはまさに、池田会長がこれまで率先して取り組んでこられたものですが、これこそ、二十一世紀において人類が進むべき方向なのです。
2  認識せずして評価するな
 池田 賢者とは過去を見つめ、未来を洞察する人のことです。博士は賢者です。その博士とともに、希望の新世紀を築くための方途を語りあえることは私の喜びです。こうしたテロ事件が象徴しているように、西欧諸国にとってイスラムは、「脅威」というイメージがことさら強いような気がします。イスラム文化、またムスリム(イスラム教徒)の生活の実像は、欧米諸国ばかりか日本でもなかなか報道されません。そのために、かたよったイメージが先行している感があります。
  たとえば、イスラム法にのっとった銀行では利子が禁止されていることなどは、イスラム世界ではごく普通のことなのに、そういうありふれた事実ですら、日本で知る人はほとんどいないでしょう。
 テヘラニアン 労働せずにお金がふえることを、好ましくないと考えることに由来する慣習です。イスラムの聖典『コーラン』に、その禁止は明示されています。〔節番号二二七六〕(以下、節番号はいわゆる「フリューゲル版」にのっとる)
 池田 イスラム銀行以外に預けているムスリムでも利子を放棄し、その分を喜捨や貧しい人への布施にと要望する人が多いそうですが。
 テヘラニアン 人さまざまですが、今、言われたような人はたしかに多いですね。とはいえ、イスラム銀行のなかには、預金者に出資者になることを許したり、イスラム法によって許された範囲で利子を受けとれるようにしているところもあります。
 池田 また、“女性が差別されているイスラム社会”というイメージも広まっていますが、女性の社会進出はさかんで、首相や政府高官や知識人にかなりの割合で女性がいます。少なくとも、その比率は日本以上でしょう。うれしいことに、創価大学にもヒジャーブ(イスラムの女性が顔をおおうのに用いる伝統的なスカーフ)を着用した女性留学生が学ばれています。彼女も母国での活躍が期待されています。「認識せずして評価するな」――これは創価学会の牧口初代会長の見識でした。ともかく、つくられたイメージから離れ、イスラムの実像に少しでも迫るために、まず基本的な事実を確認したいと思うのです。
 テヘラニアン 大賛成です。実像を知り、認識を深めることは、情報化が進んだ現代では重要です。高度情報化社会では、どうしても出来合いの情報を受動的に受け取ることしかできなくなるからです。
3  イスラム文化を象徴する時間の価値観
 池田 私は一九六二年(昭和三十七年)の一月末から約二週間、博士の故郷であるイランをはじめとして、イラク、トルコ、エジプト、パキスタンのイスラム諸国を訪れました。当時、日本は「高度経済成長」の坂を、猛烈な勢いで上っているところでした。新しい技術や製品が街にあふれだし、「物質的進歩」の至上価値を皆が疑わなかったころです。そういう日本から、宗教的伝統を重んじるイスラム諸国を訪れたのです。それは新鮮な驚きでした。なにかしら懐かしくもありました。たとえば、時間の概念です。イスラムでは日常的な時間をいくつかに分ける、と聞きました。
 テヘラニアン 祈る者のための時間「サラート」、労働のための時間「ショグル」、趣味やゆとりのための時間「ラーハ」などですね。
 池田 金儲けのためにあくせく働く「ショグル」の時間は、あまり高く評価されませんね。日本などでは、「ゆとり」といっても、翌日の仕事に向けて心身をリフレッシュするための“余暇”の時間は「ラーハ」というよりは、「ショグル」の一部と位置づけられるかもしれません。(笑い)
 テヘラニアン ワーカホリック(仕事中毒者)にとっては、すべてが「ショグル」。遊びも仕事に奉仕させられています。人生に何か目的があって、そのために働くのではない。働くために働くということになります。
 池田 一方、「ラーハ」は、友と有意義な対話をしたり、旅をしたり、詩を創ったり、人生の意味を思索する時間ですね。実際にイスラムの国々を訪れ、その「ラーハの時」がゆったりと流れているのを実感しました。また、祈りの時間、「サラート」もそうでした。異なる文化とありのままの姿で出合い、驚いたり感動したりすることは大切です。現代社会において、人は「他者」と出会うとき、まず“自分とは異質なもの”“奇異なもの”、さらには“悪”とすらみなして、身がまえる傾向がある。現代の深刻な病理です。

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