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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 仏教とイスラム――平和への対話…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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1  行動する平和学者として
 池田 私は、平和のために戦う人を、もっとも尊敬します。平和を語る人は多いが、現実に行動を起こす人は少ない。
 行動する平和学者であるテヘラニアン博士と、こうして語りあえることを、うれしく思います。
 テヘラニアン こちらこそ、よろしくお願いします。池田SGI(創価学会インタナショナル)会長とは、これまで何度もお会いする機会がありましたが、いずれも時のたつのを忘れるほど充実したものでした。お話ししていると心がなごみます。ただし、いつも話しあいたいことが多すぎて、時間がたりないことが残念でなりません。
 池田 「コミュニケーション論」の権威である博士からのあたたかなお言葉に、勇気づけられます。ところでこの前、博士は南アフリカのダーバンへ行かれましたね。
 テヘラニアン ええ。私ども戸田記念国際平和研究所の主催で、アフリカの食糧安全保障をテーマに国際会議を開きました(一九九八年六月)。創立者の池田会長から丁重なメッセージを頂戴し、心から感謝しております。会議の冒頭に、私から紹介させていただきました。参加者から、すばらしい反応が寄せられたことをご報告します。私は、会長が早くから「二十一世紀はアフリカの世紀」と、アフリカに大きな関心をいだいてこられたことをよく知っています。
 池田 マンデラ大統領をはじめ、アフリカ各界の方々とも、私は、できうるかぎりお会いしてきました。ダーバンといえば、かのマハトマガンジーとゆかりの深いところですね。
 テヘラニアン そのとおりです。南アフリカで第三の都市であり、非暴力平和運動の原点の地といってよいでしょう。ガンジーは十九世紀末から二十一年間、そこで差別撤廃のために戦い続けました。
 池田 ガンジーについては折にふれて論じあいたいと思いますが、インドとパキスタンの核実験を見ても、人類は二十一世紀へ、あらためて非暴力主義を再評価し、生かしていく道を考えるべきではないでしょうか。絶対に核戦争は起こしてはならない。
 テヘラニアン まったく同感です。戸田平和研究所が今、主要な研究プロジェクトとして「ヒューマンセキュリティー(人間の安全保障)」を取り上げ、その重要な課題として核兵器廃絶への手だてを考えているのもそのためです。私も座して研究に没頭するだけでなく、核兵器廃絶へ向けて、英知のネットワークを築くために行動していきます。
2  生い立ち――幼き日の思い出
 池田 さて対話を進める前に、私たちの相互理解を深めていくために、まず博士の生い立ちからうかがっていきたいと思います。
 テヘラニアン 分かりました。私は一九三七年、イランのマシュハドというところで生まれました。この「マシュハド」という地名は、“殉教の地”を意味する言葉に由来するものです。ここには、イスラムシーア派の最高指導者、第八代イマームレザーが埋葬されています。九世紀に、ホラーサーン州の知事として赴任してきたレザー師は、この地に到着して間もなく、敵対者たちに毒殺されてしまったのです。レザー師は公平な正義の指導者として名高い人だっただけに、その死がたいへん惜しまれ、この地は師にちなんで“殉教の地”を意味する「マシュハド」と名づけられたのです。
 池田 その墓所であるイマームレザー廟は、今でも毎年、世界各地からシーア派の巡礼者たちが訪れる聖地として有名だそうですね。
 テヘラニアン ええ。ですから、そこで生まれた私はいやおうなしに、「マシュハド」という場所がもつ精神的な意味合いを、子どものころから意識して育ってきたのです。私は現在、ハワイで暮らしていますが、生まれ故郷を思い出すとき目に浮かんでくるのは、イマームレザー廟の黄金色のドームと、それに付属する高い塔の情景です。ドームは市街地の中心部にあり、私の家からもよく見えました。そしてそこから、日の出、正午、日没と、塔から放送される祈りへの呼び声が聞こえてきたのです。
 池田 太陽の光に輝く黄金色のドーム、そして街々をつつみこむ祈りの声――まさに、お国を象徴する情景ですね。私は一九二八年(昭和三年)、東京の大田区で生まれました。当時は、都会の田舎という感じで、とくに記憶に残っている光景は家の近くの海岸から望む海です。とてもきれいな、青い海でした。実家が、海苔採取という栽培漁業をいとなんでいたこともあり、潮の干満に合わせ真夜中に仕事へと出かける父たちの姿と、それを懸命に支える母の印象が深く残っています。
 テヘラニアン 私が忘れられないのは、朝な夕なにコーランを唱える母の美しい声です。幼き日にいつも耳にしていたこの声が、私の心に深い宗教的情操を植えつけました。私の一日は、鐘の音、アザーン(礼拝時の告知)の詠唱、そして母のコーランを唱える声によって区切られ、明け暮れたのです。こうした生活が、まだ幼かった私の生命に美しい規則性をあたえ、この世に自己を超越した世界があることを銘記させました。今、思えば、私は生まれながらにして、精神生活の世界というものを、知らずしらずのうちに経験してきたような気がします。
3  人間を野獣に変える“戦争の愚かさ”
 池田 母の声には、平和の響きがあります。私が十一歳のとき、あの忌まわしい第二次世界大戦が始まりました。博士はおいくつでしたか。
 テヘラニアン そのとき、私はまだ二歳でした。
 イランは中立を宣言したにもかかわらず、連合国軍に侵略され、占領されました。当時、連合国側のソ連の一部地域は、ナチスドイツ側によって包囲されていました。イランはその地域へ、連合国が戦略物資をペルシャ湾から送り込むための“勝利への橋”として利用されたのです。一方で、私の故郷マシュハドも爆撃を受け、ソ連軍に占領されてしまいました。当時、市街地を歩くとき、ソ連軍の砲弾の破片が当たらないように、私は母のチャードル(大きなヴェール)の陰によく隠れていたことを覚えています。
 池田 人々の幸せな暮らしを、根こそぎ台無しにしてしまう。それまで暮らしていた町が一日にして灰になり、親しかった人々の命を次々と奪っていく――戦争のむごさというものは、体験していなければ分かりません。
 テヘラニアン 本当にそのとおりです。こんな苦い思い出もありました。私の兄たちが、市の公営プールで泳いでいたときのことです。そこに突如、ソ連の兵隊が現れました。兵隊たちは兄たちを見つけると、「もうダメだ」と思うまで兄たちを水中に押さえつけ、それからようやく引き上げては喜んでいる……。そんなことを何度も繰り返していました。どうやら彼らは、兄たちが苦しむ様子をおもしろがり、楽しんでいるらしい――そのときから、戦争に対する憎しみが私の心に埋めこまれました。戦争は人間を“野獣”に変えてしまうことを、私は思い知らされたのです。ときには、ソ連の兵隊が子どもにお菓子を与えることもありましたが、そんな優しさはきわめて例外的なものだったのです。

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