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日蓮大聖人・池田大作

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5「生命の世紀」に向けて――世界市民の…  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  社会のために――そこに学ぶ喜びがある
 池田 いよいよ最終節となりました。二十一世紀を「生命の世紀」として輝かせていくために、「人間」づくりの要諦について、語りあっていきたいと思います。
 二十一世紀は、人類はいまだかつてない高齢化社会を迎えます。すでに高齢化が進んでいる先進諸国では、「生命の質(クオリティ・オブ・ライフ)」「生きがい」の問題が大きく取り上げられています。
 だれびとにとっても、生命の豊かな可能性は、社会に出てからも生涯にわたって、開発を続けるべきものです。
 モスクワ大学の創立者であり、詩人でもあったロモノーソフは、「学問は青年を養い育て、老いたる者には喜びをあたえる」「学ぶということなしに人間は、人間と名づけることはできない」とうたっています。
 シマー 私にとって、教育とは、「学ぶことの楽しさを学ぶこと」
 であり、「自分の頭で考える可能性を知ること」です。
 池田 向上する喜び、自立する喜びですね。
 シマー これは、一度、得たら、一生、自分のものになる“宝”です。
 教育の根幹は、「学び続けること」を教えるところにあります。それは、蓄積された知識の伝授よりも大切です。
 ブルジョ 数年前に、きわめて興味深い本が出版されましたが、その著者が、生涯教育について、「もし学ぶ喜びがなければ、それは終身刑になる」と書いたのです。(笑い)
 池田 生涯教育の急所を突いた言葉です。
 ブルジョ 生涯教育が終身刑にならないよう、何点か大事なことがありますが、一つは、むずかしさを避けて学ぶのではなくて、“むずかしさを突きぬけて学ぶ”ところに本当の喜びがあるということです。
 池田 仏典にも、「生死即涅槃」とあります。一次元でいえば、「生死」の苦難に挑戦し、乗り越えたところに、「涅槃」という歓喜の幸福境涯が開かれるという意味です。「学び」においても、苦しさ、むずかしさを体験しなければ、真実の喜びはありません。
 そこで、生涯教育が終身刑にならない方法は、まだほかにもありますか。(笑い)
 ブルジョ もう一つは、責任感です。他者に対する、また、自分自身が正しく生きていくための責任を果たすために、学んでいくことです。
 新しい科学技術が開発されて、それに、ただ追いついていくために、何とか学ばなければならない。――これでは、“教育の奴隷”になりかねません。
 つねに新しいものを発見し、学んでいこうとする内発的な動機、“喜び”があれば、生涯教育は非常に充実した教育、また学習になると思います。
 池田 社会のため、他者に奉仕するために学ぶところに、喜びがあり、新たな発見がある――まさに至言です。
 シマー モントリオール大学は、かなり早い時期からブルジョ博士の理念に近い形の生涯学習に関する目標と方向づけを行ってきております。
 生涯学習のプログラムは時代とともに変わってきました。独自に開発したプログラムとして注目されるのは、すでに労働市場にいる人たちに対する教育です。変化の激しい現代においては、自己の能力を向上させ、新しい知識を獲得しなければ、職業上の要求についていけないことが多い。そこで、モントリオール大学の生涯教育では専門能力の向上を図るためのさまざまな講座を設けています。
 カナダのような先進国では、高学歴、情報量の急増、専門職人口の増加と文化的多様性などが洪水のように社会を襲い、労働市場において競争力を失わないためには、生涯学習は、もはや不可欠のものとなっています。
 むろん、わが大学の生涯学習プログラムには、一般教養や趣味の要素の強いものもあります。
 池田 たえず社会の動向を察知しながら、市民が喜びをもって学習し、社会に貢献できるように工夫されていることがよくわかります。創価大学も、通信教育部を設けて、一般の市民の方々に、教育の場を提供しております。
 シマー よく存じております。
 池田 万能の天才を生涯発揮し続けたダ・ヴィンチの言葉にはこう記されています。
  「充実した生命は 長い
   充実した日々は いい眠りを与える
   充実した生命は 静寂な死を与える」
 学び続ける人、「向上の人」こそ、人生を荘厳する人です。
 恩師戸田城聖先生が口癖のように言われていました。「人生は最後が大切だ。途中ではない。最後の最後が幸せで充実していたら、その人生は勝利だ。願わくは、夕日が荘厳に沈むような晩年でありたい」と。
 生涯、太陽のごとく輝き続ける人生をつくることが、二十一世紀を生きる人の要件です。
2  違いの認識が「世界市民意識」へ
 シマー 二十一世紀は、また、情報化時代でもあります。
 高度情報化社会に対して、大学がどのように適応していくかということも、新しい課題です。
 新しい情報・通信技術によって、たとえば、インテリジェント個人学習システムのような新しい学習方法も開発されています。会長は、この新しい試みについてどうお考えですか。
 池田 情報化社会の中で、学習方法も変わらなければなりません。創価大学では、学生と教員が、インターネットで世界中の情報を検索できるようにしています。女子短大では、インターネットを利用した英語学習を進めています。「知識」をあたえられるのではなく、みずから世界の情報を手に入れ、「学習」し、さらに、遠く離れた世界の人とも“対話”し、友人になることができます。世界的次元でたがいに「学び」あい啓発しゆく時代に入ってきました。本格的な「国際化時代」です。
 以前、お会いしたコスタリカのフィゲレス大統領は、二カ国語が話せ、コンピューターが使え、社会に奉仕できる国民を育てたいと話しておりました。
 シマー 私が学生に、まず訴えたいことは、母国語を完全にマスターすることです。人間は母国語を通じて世界を見ていますので、知覚も表現も、母国語の質をそのまま反映してしまうものです。
 これに対して、第二言語、第三言語は大いに性格が異なっています。これらは本質的に他人とのコミュニケーションのためのものです。ほかの文化様式を知るためにも、外国語の習得はとても大切です。
 しかし、二十一世紀を生きる人間に習得が必要な言語は、それだけではありません。今も話しあったように、この情報化社会における「知」の領域には、数学的言語とコンピューター言語が欠かせないものとなっています。
 また、芸術の分野、すなわち、文学、絵画、音楽、造形など、いずれであろうとも、そのメッセージを言語として理解しなければならないと思います。テクノロジーの発達だけでは、人間は幸福になれません。ハイテクは、良心や知識や人間の偉大さを表すすべての資質と並行する形で発展しなければ、必ずや人間を疎外してしまうものです。
 池田 そのとおりです。コンピューターを駆使したり、「語学」を学んだりするのも、結局は、人類の多様な文化や民族性を知り、国際人としての「世界市民意識」を形成するためです。他の人々の心を知り、どう協調し、共鳴していくか、その感覚・意識こそが、国際人としての心ではないでしょうか。
 シマー 現代社会においては、国家間の相互依存、
 政治と経済の連動が常識となっていますから、学生にはまず文化的多様性に寛容であり、かつまた地球規模でものを考えてもらいたいと思います。
 自分の存在が、つねに地球上の他人に連動しているという認識から、責任感も生まれます。他の文化に遭遇したさいのカルチャーショックは、今後の世界市民にとって、日常的な現象となるでしょう。
 ブルジョ しぜんな交流のなかで、おたがいに違うということをしっかり意識しつつ、そこから、“共有できる事項”を発見していくところに、本当の意味での「世界市民意識」が生まれてくるのではないかと思います。
 「世界市民意識」を育むには、まず多様性をしっかり認識することが大事です。そして、他の人が自分と違ってよい、違ってもよい権利をもっているということを、しっかり認識することが大事です。
 池田 日蓮大聖人は、「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」と説かれています。
 多様な他者の生命を、すばらしいと尊敬すれば、そのまま鏡に映るように、自分の生命を荘厳していくことになるのではないでしょうか。
 おたがいの差異を尊重しあうところに、みずからの“個性”も磨かれていくのです。
3  大乗の菩薩が立てる「四弘誓願」
 ブルジョ 文化多元主義から、“共有する意識”をどのようにしてつくっていくのかということですが、それには「交流」し、おたがいに「理解」しあっていくことが大切です。
 そこでは「慈悲」というか、“他の人のために尽くす”
 ということが非常に大事になってきます。しかし、それは一方的に他者に尽くすだけでなくて、やはり自分自身がこういうふうに尽くしてもらいたいという要望も、きちんと言えなければならないと思います。特定の他者に対してだけでなく全体に対する責任感が、大事になってきます。
 池田 教授が言われたプロセスは、仏教が説く大乗の菩薩の生き方と重なってきます。
 牧口会長は、教育の目的を考えるときの第一要件は、「一般民衆が人生の目的を如何に自覚するか」(『創価教育学体系』上、『牧口常三郎全集』第五巻)にあると述べています。それは、「人生の目的が、即ち教育の目的と一致するから」(同前)です。
 人生をもっとも豊かに、もっとも実りあるものにしようと挑戦し続けるのが、仏法なかんずく大乗仏教の根本姿勢です。大乗の菩薩が仏法の実践を始めるにあたり、万人共通の四つの誓い「四弘誓願」を立てます。これは、仏法者として学び達成すべき「教育の目的」即「人生の目的」を示すものです。
 ブルジョ それは、具体的には、どのようなものですか。
 池田 第一は「衆生無辺誓願度」です。
 “あらゆる人を幸福にせずにはおかぬ”という誓いです。日蓮大聖人は「所詮しょせん四弘誓願の中には衆生無辺誓願度を以て肝要とするなり」と仰せです。それは、仏法を学ぶ根本目的が「自他ともの幸福」以外にないからです。まさに教授が指摘された「全体に対する責任感」です。
 第二は「煩悩無数誓願断」です。これは貪(際限なき欲望)・瞋(欲求が満たされぬ憤懣)・癡(真正の目的を見失った愚かさ)におおわれた小さな自己に打ち勝とう、との誓いです。自己中心性を脱却し、確固
 たる理想と勇気をもって知恵を発揮し、あらゆる苦難を乗り越えて生きぬこうということです。
 第三は「法門無尽誓願知」です。これは、さまざまな人間の苦悩を解決するために説かれた法理を学び尽くそうとの誓いです。
 仏の智慧から見れば「一切法即仏法」です。世界のよりよき未来を開くため、仏法をはじめ、人類の築き上げた多くの知識、多様な文化を、尊敬の心でもって接し、学びつつ、さらなる「真理」の探究を広げていこう、ということです。
 第四は「仏道無上誓願成」です。
 これは、どこまでも「人間完成」をめざそうとの誓いです。時間的には過去・現在・未来を見渡し、空間的には全宇宙をとらえきった仏の大境涯をめざして、たゆまぬ前進を続けるということです。そのためには、生あるかぎり、ぞんぶんに学び、生きぬくことです。いわば「生涯学習の誓い」です。
 「四弘誓願」には、人生の根本として、自身の向上と他者への貢献をともにめざす生き方が示されています。私は、この根本の確立が「世界市民」「国際人」の要件であると考えています。

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