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日蓮大聖人・池田大作

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2 生物進化論をめぐって  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
1  ダーウィン進化論と「自然淘汰」の思想
 池田 それでは、化学進化・分子進化から生物進化へ話を進めたいと思います。
 一八五九年にチャールズ・ダーウィンが有名な『種の起源、または生存競争に勝ち残る種の保存について』という本を発表して以来、約百五十年になります。そこで展開された「自然選択(自然淘汰)」(生存競争の結果、適者が生存して子孫を残し、不適者は子孫を残さずに亡びることをいう)による生物の進化という思想は、生物学の世界にとどまらず、社会的にも大きな影響をあたえてきたことは周知の事実ですね。
 ブルジョ ダーウィンの理論は、現時点で見れば、単純に過ぎるように思えます。
 池田 そのとおりです。ダーウィン進化論は、生物進化の研究史のなかで初めて「進化」のメカニズムを提案したものとして、高く評価されてきました。が、一方、近年、分子生物学や分子遺伝学の進展にともない、さまざまな角度からこのダーウィン進化論が問い直されようとしていますね。
 ブルジョ ダーウィンの理論は、彼の時代に知られていたいくつかのデータを用いて、「進化」の具体的内容を説明することに主眼を置いたものです。その説は、万物は全能の創造主によって創造されたものであり、進化または発達してきたものではないという考え方に、対立しようとしたものではないと、私には思えます。
 池田 そこで、生物進化を語りあうにあたって、その出発点である「ダーウィン進化論」を整理しておきたいと思います。
 その骨格は、
 ①生物は一般に数多くの子どもをつくる、
 ②数が多いからその間で厳しい「生存競争」が起きる、
 ③子どものなかに「変異」(同種の生物の各個体が少しずつ異なっていること)をともなったものが出現し、その「変異」が生存競争に有利に働く場合がある、
 ④有利な「変異」を起こした変種は生き残る可能性がごくわずかだが高くなる、
 ⑤このようなプロセスが繰り返され、何百、何千世代と続いた結果、その変種は種のなかでの多数派となる。
 ――すなわち、ここに新しい種が誕生し、それが「種の進化」にほかならない、という五段階から構成されているようですね。
 ブルジョ そうです。ただし、わかりづらい点もあることは事実です。
 池田 簡単に図式化した場合には、「多産→生存競争→自然淘汰→進化」というようになりますが、おっしゃるようにメカニズムの不明な点が含まれていたことも事実ですね。
 「生存競争」は実際にはどのような形で存在するのか、「変異」はどのくらいの頻度で起こるのか、そして「遺伝」の具体的仕組みなどについては、科学的な説明がなされなかったのです。
 ブルジョ ですから、ダーウィン以後に発展してきたダーウィニズムやネオ・ダーウィニズムのほうが、ダーウィン自身の説よりも興味深いと言われるようになったわけです。
 池田 今世紀に入り急速に発達した遺伝学の知識などで、いくつかの不明な点を克服していったのが「総合進化説」であり、ネオ・ダーウィニズム(ダーウィン進化論をもとに突然変異、自然淘汰、交雑、遺伝の知識などを総合した進化論のこと)と言われているものですね。ド・フリーズの「突然変異」(遺伝子が構造的変化を受け、それによって細胞や生物の遺伝子型がより安定なものへ変化する過程)の発見や「メンデルの法則」(メンデルが一八六五年に発表した遺伝の法則。生物の形質の相違は遺伝因子によって決定され、交雑によって生じた雑種の初代には優性形質だけが現れ、第二代目には優性と劣性を現すものが分離してくるという法則)の再発見に基づき、ダーウィン進化論を補強したと言われています。
 しかし、基本的には、それらも「自然淘汰」によって進化が生じるという立場を貫いていますから、そこにネオ・ダーウィニズムと言われるゆえんがあるのでしょう。
 ブルジョ いろいろな問題点がありながらも、たしかに「ダーウィン進化論」は現在にいたるまで進化をめぐる議論の中心をなしてきて、その説がさまざまに利用されてきました。
 ナチスのファシズムを社会的、政治的に正当化させていくために利用されたのが、その一例です。また、最近はネオ・リベラリズム(偶然で勝敗が決まるゲームで勝者が生き残り、敗者は死ぬという自由競争を正当化する)の理論的根拠として乱用されています。
 池田 自然科学の仮説をただちに人間社会に適合させること自体、すでに乱暴な議論というものでしょう。いわんや、「自然淘汰」「弱肉強食」を自分の都合のよいようにかかげて、傲慢にも弱者を切り捨てることなどは、断じてあってはなりません。
 人間は、ややもすれば、「自分だけは不幸におちいらない」と錯覚しやすいものですが、アメリカの心理学者のカール・ロジャース氏が指摘するように、だれびとであれ生きることには危険がつきまとうものです。
 ところが、多くの人は「心の傷が残るような出来事は他の人の人生でしか起こらない、自分の人生では決して起こらない」と考えてしまいます。心理学者のリンダ・S・パーロフ氏は、これを「不死身幻想」と呼んでおります。
 この幻想から離れて、自他を取り巻く環境を冷静に見つめ、苦悩から根源的に離れようとしたのが、若き釈尊です。
 釈尊は十九歳で出家する前、王子のころにすでに、自分が弱者になる可能性はつねにあるのだから、たとえ今、強者(社会的マジョリティー)の側にいても奢り高ぶることがあってはならないと気づくのです。
 このことは、人間は生老病死の苦悩を逃れられないことを示す「四門出遊」のエピソードとして、象徴的にまとめられています。
 そして、釈尊は、弱者(社会的マイノリティー)が尊厳をもって生きられるように思いを致すこと――すなわち、「慈悲」を重視し、それをみずからの生きる原理とします。
 ブルジョ その意見には賛同できます。重要な観点です。
 池田 しかし、弱肉強食・自然淘汰を原理として、見境のない攻撃性をもった者がいるかぎり、弱者は弱者でとどまっていては、実際には、ほそぼそと生き延びるしかありません。
 それゆえ、弱者は力をつけ、賢くならなければならないと思うのです。人間は先天的な能力よりも、後天的な教育や努力によって、大きくはばたくことができます。
 弱者が力をつけるために、弱者を積極的に支援する「アファーマティブ・アクション」(積極的差別防止措置)が大切でしょう。
2  “相互関連のダイナミズム”に着目して
 ブルジョ まったくそのとおりだと思います。
 ところで、ダーウィンの進化論についての今日の科学者たちの意見はさまざまです。
 たとえば、アンドレ・ピショはその著書『生命観の歴史』の中で、「ダーウィンは、進化について説明するのに既成概念を極力取り払ったことで名声を勝ち得た」と述べ、そのために分子生物学など自由な学問的展開への道が開かれたと指摘しています。ダーウィン自身の理論だけでなく、ダーウィニズムやネオ・ダーウィニズムを完成させ、真理を追究するためには、生物遺伝学などの分野をはじめとして、さらに新しい発見がなされなければならない、という指摘はまさに正鵠を射ています。
 池田 私も同意見です。一方、その後、ダーウィン進化論に対抗して、「中立進化説」(「突然変異」の大部分は、生物にとって有利でも不利でもない中立的な変化であるとする説)とか「断続平衡説」(進化は連続的に起こるのではなく、短い間の急激な変化によって起こり、その後はかなり長い間、変化が起きない状態が続くという説)などが提案されていると聞いています。
 それらの新説は、ダーウィン進化論との違いを明確にさせながらも、ダーウィン進化論と同様、決して完成されたものではなく、今後さまざまなかたちで確証づけられるべき部分を有していると言えるでしょう。
 そこで、生物進化をめぐる多くの議論のなかで展開されてきた、論争の中心的な課題をクローズアップしてみたいと思います。
 「獲得形質(先天的ではなく、後天的に学習などにより獲得されたさまざまな性質)は遺伝するか」とか、また「進化の主役は環境か生物か」、「進化は必然の結果なのか偶然の結果なのか」、「進化は連続か不連続か」、「生存競争なのか協調なのか」といった議論がなされているようですね。
 ブルジョ それらは端的で明確で、今まで生物の進化について論じるときに繰り返し問われてきた項目でもあります。しかし、そのように二者択一的に範疇化させると、そのどちらをとるか、ないしは「イエス」「ノー」をはっきりさせることによって一方の立場をとることを明確に意思表示しないと、決定的な答えになりません。それは無理というものでしょうし、現在のところそれが不可能であることもはっきりしていると思われます。
 以前にも申し上げたように、少なくとも生物の有機体としての性質に関するかぎり、その錯綜した様相に注目しなければ、それ自体の本質やその内奥にある根源的なダイナミズム、ましてや他の生物との相互作用のダイナミズムについて理解することはできないと思うのです。
 池田 よくわかります。博士の言われる生物進化の内奥にある“根源的ダイナミズム”、“相互関連のダイナミズム”にこそ、着目すべきでしょう。その上に立って、どのあたりに議論の焦点があるのかを、わかりやすく列挙してみたいと思います。
 最初の「獲得形質は遺伝するか」という問題は、「用不用説」とともに「ラマルク進化論」(博物学者ラマルクによって一八〇九年に提唱された、外界の影響や用・不用による器官の発達・進化が遺伝することも進化の要因であるとする説)の核心でもありましたね。これまで多くの科学者によって否定的に扱われてきたようですが、ノーベル医学生理学賞を受賞したアメリカのハワード・テミンは新たな仮説として、レトロウイルスが獲得形質を遺伝させる仕組みを証明し得る(RNAからDNAをつくりだせる酵素をもつレトロウイルスは、自分の遺伝子をヒトを含めた動物の遺伝子の中に組み込めるので、そのメカニズムになる可能性が出てきた)と発表、その行方が注目されていると聞いています。
 ブルジョ たとえば、なぜ現代の北米人の若者は両親より背が高いのか、という問題があります。この場合、生物とその環境との間の交流が決定要因であるということになり、栄養やライフスタイルの変化がその理由の一つであるという説明もありました。
 しかし、実際にはこの相互作用はもっと複雑きわまりないもので、それも連続的に変化をあたえ続けるものと言えるでしょう。
 ある種の獲得された形質が、遺伝の「プログラム」のなかに組み込まれていくメカニズムについては、科学者たちは依然として、その解明のために、いつ終わるともわからない悪戦苦闘を続けているというのが現状でしょう。
3  進化は偶然の結果か、必然の結果か
 池田 次の「進化の主役は環境か生物か」という問題も、科学者の“悪戦苦闘”の一つですが(笑い)、進化論をめぐる論争でどうしても欠かせないテーマが、この「目的論」(生物体におけるすべての構造と機能は、生きる目的にかなっているとする説)と「機械論」(生物を一種の機械と見なし、その仕組みは完全に物質法則のもとにあるとする考え方)の対立です。この点について、博士はどうお考えになりますか。
 ブルジョ その問題を考えるときは、「プログラム」(前もって組み立てられていたこと)という概念を導入するとよいかもしれませんね。この問題は、別な言い方をすれば、生命はすでに前もって決定されていたし、生命自体も一切変更の余地がない決定的な道をたどるように最初から決められていたのか、または、生命はつくられ、構築され、結実していったものなのか、というようになるでしょう。
 しかし、結果的には、「目的論」も「機械論」も「プログラム」を暗示していますし、「プログラム」という以上、その裏にはある意図があったと受け取れます。
 「機械論」は何らかの方法ですでにあったものしか表面化しないという主張で、そこには「逃れられない運命」という意味があります。「プログラム」は生物のなかに前もって書き込まれていて、登録されているというわけですから、この内在的な「プログラム」は、いわばそこに閉じ込められていると言えます。
 池田 哲学的な概念から言えば、あたかも宿命論のようなものですね。その生物がどのようになるかは、あらかじめ決まっているということになります。これでは「自由度」はまったくありません。
 ブルジョ 一方、「目的論」では、生物にとって「プログラム」は外部的なものです。生物の発達と進化をどこか遠くから指令している、という言い方ができるかもしれません。その指令の設計意図が明らかでないので、この場合「プログラム」は閉じていなくてオープンになっています。しかし、その「プログラム」は容赦なく、慎重に進むべき道を設計し続けます。
 池田 これは、宇宙の創造主である“神”による運命の支配という考え方に通じますね。創造主たる“神”が、みずからのあらかじめ定めた計画(プロヴィンス――摂理)に基づいて、宇宙が変化していくという。
 日本の仏教宗派や新宗教のなかにも、絶対的な神仏の意図に基づいてみずからが「生かされている」との自覚が大切である、と主張するものがあります。みずからの主体性で「生きている」という視点がぬけ落ちて、ただ、神仏のおかげで「生かされている」ととらえるのです。
 たしかに、人間は一人では生きていけないものですから、その点では、何かのおかげで生きていけるとの感謝の心は大切です。
 しかし、自分を取り巻く自然や社会環境によって生きていればこそ、その意義を高めるために、みずからの主体性を発揮し、より高い価値を生みだしていくことが大切ではないでしょうか。
 「目的論」のような考えでは、それぞれの生命体、個人には「自由度」がなく、主体的、創造的な行動は閉塞してしまうことにもなりかねません。
 ブルジョ そうなりますね。「目的論」では外見はどのように見えても、すべては必然性の支配下にあり、偶然的なものは何もない、というわけです。
 しかし、われわれがこれまで見てきたように、ダイナミックな進化の過程で、“偶然”はきわめて決定的な役割を果たしてきたように思えるのです。
 池田 そうです。“偶然”が介入するからこそ“自由”があり、創造が可能になるのではないでしょうか。
 そこで「進化は偶然の結果か、必然の結果か」という論題になります。
 ブルジョ ここでは、パリ病院に勤務する生物物理学者のアンリ・アトラン博士が、一九九四年にパリの医学・哲学会議が主催した会合で行ったプレゼンテーションを引用してみたいと思います。
 博士は、移動性をもつ生物とそうではない生物のなかにおいて、われわれが観察できることをわかりやすく説明しようとして、横軸に「プログラム」、縦軸に「データ」をとるチャート(図表)を使いました。
 「プログラム」軸はプログラムされた遺伝的特質で、「データ」軸は移動性や、未定で予期できない分散的データを表します。いわば前者は秩序、後者は無秩序で、その対比を示したチャートとも言えます。
 そのチャートを見るかぎり、生物とその存在にかかわるダイナミックな相互作用において、ジャック・モノーがいう偶然と必然との間に逆比例的な関係があることがわかりました。
 すなわち、プログラムされた特質が多いものほど“秩序的”で、それが少ないと“無秩序的”である、という当たり前のような帰結であったのです。
 いずれにしても、偶然か必然か、どちらか一方にかたよるというものではないことだけは確かだと思います。

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