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日蓮大聖人・池田大作

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5 死とどう向きあうか  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  寿命の長さではなく、どう生きたか
 池田 現代では、医学の進歩により、死と対峙して生きなければならない“臨終の期間”が大幅に延長されています。したがって、現代人が死と対面し、死の恐怖・不安を乗り越えるために、どのように援助すればよいのかといったテーマが、現代医学の重要な問題となってきました。そうしたなかで、今日、終末期の医療として“ターミナルケア”が注目されています。
 ブルジョ ここ二十年ほどの間に、カナダでもターミナルケアによって「死苦」の一時的抑制をはかろうとする施設がいくつか誕生しています。
 サービスの質は優れていますが、このような施設の数がまだ少ないので、入れるのはごく恵まれた人に限られます。
 一方、このような専門的な施設に入るのではなく、死にいたるまでの時間をできるだけ長く家庭で過ごせるようにする方法もとられています。必要な医学的な支援を家庭に持ち込み、とくに患者の苦痛を和らげることが医療の中心になっています。
 池田 ホスピス(終末期医療のための施設)だけが“ターミナルケアの舞台”ではありません。家庭を含めたターミナルケアが大切ですね。
 ターミナルケアは、「死」を否定的にとらえる近代文明を超えて、死と積極的に向かいあう、精神的、宗教的かかわりをうながすものであると思われます。人間はいかに死すべきか、自己の最終章をどのように過ごすべきかという“実存的問い”はまさしく宗教に向けられたものです。
 ブルジョ 人生をその最後までできるだけ楽しみ、価値あるものにするために努力をし、それを具体的に永続させるように努めるべきであると私は思います。フランスの栄養学者トレモリエールは「ただ齢を重ねるのではなく、生命力豊かに一年一年を送りたい」と言っています。重要なのは、「何年生きたか」ということだけではなく、豊かな希望をもって「どう生きたか」だと思います。
 池田 そのとおりです。
 ホスピスにおいても、精神的な面のケアが重要視されているようです。
 医師、看護師のほかに、ソーシャルワーカー、ヘルパー、ボランティアなども置き、これに宗教家も加わり、家族を含めて精神的に支えていくのが目的と言われます。つまり、ホスピスは、死を迎える場であると同時に、人生を締めくくるための“生のための場”であると言えるでしょう。
 ところで、死の切迫を自覚したときの患者のたどるプロセスについては、キューブラー・ロス博士の五段階説が一般的によく知られているようです。(以下、『死ぬ瞬間』川口正吉訳、読売新聞社、参照)
2  ①自身の死そのものへの「否認」、②運命・宿命への「怒り」、③神や仏との「取り引き」、④抑うつ状態、⑤死の「受容」、というものです。
 死に直面すると、怒りや抑うつなどの煩悩が患者の心に生じます。こうした苦悩する患者に積極的にかかわり、死苦を乗り越えて、残された生を充実させ、自己実現のプロセスへと転換させていく終末看護のあり方が、今後、ますます問われることになるでしょう。
 ブルジョ ロス博士の報告には情緒的に感動させる個所もありますが、病状の深刻さを知らされた病人が、死におよんでその準備をするために「成熟」していかざるをえない精神的葛藤を、そのまま事実として記録したものです。博士にそれを語る人たちは、はっきりとした思考をもちながら、力が弱まり、衰弱していき、見放された気持ちになっていくようです。
 ロス博士はそれを「緊張が弛緩していく」虚脱感と表現していますが、それはおそらく精神的、心理的な面だけでなく、生理的にもそのようになっていくことを言っているのではないでしょうか。それは病気の間ずっと付き添ってきた人たち――両親、友人たち、また、看護にたずさわった人たち、そしてまたロス博士なども含めて、やがて本人に死が訪れるときに味わう精神状態でもあるでしょう。
 池田 仏法では、人間の苦悩を「苦苦」(肉体的苦痛)、「壊苦」(精神的苦しみ)、「行苦」(実存的、宗教的苦しみ)の三つの側面から分析していますが、「死苦」においては、この三つの苦が凝縮して襲いかかってくると言います。
 このなかで「苦苦」に関しては、最近ではペインクリニックの発達が期待され、「壊苦」についても、家族の協力や医療体制、社会福祉を整備することで和らげることもできましょう。
 しかし、「行苦」という苦しみを乗り越えるには、“永遠なるもの”に根ざした死生観を体得することが要請されてくるのではないでしょうか。
 私は、宗教の死生観を血肉化していくとき、「三苦」からくる絶望や悲しみを乗り越えて、人生の最終章を安穏と充実へと変えていくことができると考えています。
3  “臨死体験”をどう解釈するか
 ブルジョ 私は、無意識のうちに亡くなっていく大勢の方々のことも思い浮かべます。
 疫病、飢饉、事故、災害、戦争などで放棄されたままになった犠牲者たちです。このように無謀にも無視されてしまった多くの死者からは、死の体験を聴取することさえ不可能です。その体験が実証できないというのではなくて、それを聞ける機会が少ないのです。
 池田 そのとおりですね。しかし、一方では“臨死体験”を報告している人もいます。
 臨死体験とは、事故や手術、病気などで、意識の水準が下がり、文字どおり、“死”に直面して、その後、意識を回復した人々が語る体験です。
 これは、一九七九年にアメリカの内科医R・A・ムーディ・ジュニア博士が著書『かいまみた死後の世界』を発表して以来、今日にいたるまで、多くの医師、心理学者、精神科医たちのデータが紹介されています。
 ムーディ博士が集めた体験から抽出した基本パターンには次のような例があげられます。「臨終の宣告を聞いた後に長いトンネルのようなところを通りぬける」「突然、自分が物理的身体と遊離する(幽体離脱体験)」「他者に出会う」「光の生命が出現する」「一生の主要な出来事を回想する(生涯回想体験)」などです。(『かいまみた死後の世界』中山善之訳、評論社、参照)
 その後、研究によっても、こうした基本パターンは、ほぼ共通性をもっていることが承認されつつあるように思われますが。
 ブルジョ ムーディ氏の本はカナダでもベストセラーになりました。しかし、氏の著書の中で述べられている、いわゆる“臨死体験”現象については、著者が示唆しているような説明とは違い、もっと別の解釈が可能です。
 そう言うと、何もかも合理主義の枠内に収めてしまおうとしているという誹りを受けないともかぎりませんが、人間の認知力には生理学的な面と心理学的な面があります。ものごとを説明するのにニュアンスの差や説明不足があるのはいたしかたないとしても、ムーディ氏の述べている現象は完全に合理的に説明できます。
 たとえば、数年前にルイ・ベアネールという心理分析学者が、カトリック教会が聖人に列したイグナチウス・デ・ロヨラの幻視と、ダッハウ強制収容所の囚人が見た幻視とを比較してみたことがあります。聖人の場合はみずから断食し、ダッハウの囚人は強制されたという違いはあるものの、両者には多くの類似点があったと説明されています。
 ただし、飢餓状態にみずからを置くことによってロヨラの身に起きた化学的変化が生んだ神秘的な経験と、食物を与えられなかった囚人たちが見た「幻想」あるいは幻覚では、意義的な差はあると付言していましたが。
 池田 “臨死体験”については、心理学や生理学の立場からも多くの説が出ており、たとえば、今、博士があげられたような“幻視”説もその一つです。また生理学的側面からは、幻覚説、側頭葉の発作であるとか、また脳内低酸素症であるなどの説明がなされています。
 私は、仏法者として、“臨死体験”のデータが、今後、積み重ねられ、心理学、生理学、精神医学や民族学、人類学等のさまざまな分野の研究が進むことを望んでいます。
 ブルジョ ムーディ氏が観察した現象は、生命力の枯渇から現れるものではないかと、私には思われます。
 「生」からの抜本的な決別である「死」。その「死」そのものの無意味さが、生命の連続、生命の転生は疑いないなどと否定されるのを聞くたびに、私は不快感をおぼえざるを得ません。その背景に「慰め」を求めようとする気持ちがあるのはわかりますし、そのことを弾劾するつもりはありません。しかし、それが欺瞞につながるとき、絶対に許す気になれません。
 われわれは死によって連続する生命は終わる、と言うと、人生に意義を見いだし、それを豊かに生きた人たちは、死に臨んで何か割り切れない気持ちを味わうかもしれません。死を免れようとする強い欲求にもかかわらず死は決定しており、それが豊かに生きた人生の結末でしかないという実感。あるいは、生命も欲望もすべては感得しえない無のなかに消えてしまうといった一種の「虚無感」です。
 それは信仰心のない、不可知論者の台詞に過ぎぬ、と言われるかもしれません。そのとおりかもしれませんが、一方で私は、イエス・キリストが最後の瞬間に、恐怖の状態で血の汗を流しつつ苦しんだことを忘れ去るわけにはいきません。われわれはそれでも虚無を否定し、神の子は父のみもとに帰られた、と言い続けているのです。

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