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日蓮大聖人・池田大作

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4 尊厳死と死苦の超克  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  仏法は「積極的安楽死」を否定
 池田 次に、「安楽死」「尊厳死」について話しあいたいと思います。
 ブルジョ 「安楽死」の問題については、メディアでも取り上げられ、さまざまな議論がなされています。実際、苦痛にさいなまれる患者をただ見て放っておくことはできません。
 池田 「安楽死」という言葉が意味するところは、歴史的にまた国によって異なる場合があり、いくつかに分類されておりますが、ここでは、不治の病にある患者の苦痛を除去するために、患者の意思に基づき、患者の生命を積極的に短縮させる「任意的・積極的安楽死」について取り上げたいと思います。
 ブルジョ 安楽死を任意的と強制的、また積極的と消極的なものに区別するようになったのはそれほど古いことではないようです。しかし医療技術がいちじるしく進歩するなか、その限りない医療の力にはたして私たちはすべて身を任せてよいのかという疑念が生まれました。そこで「死ぬ権利」や「尊厳をもった死」という考え方が出てきました。
 池田 日本では、一九九一年、末期の患者に医師が塩化カリウムを注射して死亡させ、医師が殺人罪で起訴されるという事件が起きています。この事件は患者の意思は確認されず、家族の要請によって医師が行ったもので、安楽死とは言えませんが、今後、こうした場合に患者から「安楽死」を要請されるケースは増加する可能性が高く、深刻な社会問題となることが予想されます。
 ブルジョ 「安楽死」に対する議論は大別すると、人間の生命が神聖であることを認めたうえで、それを全面的、絶対的に尊敬するという意見と、個人の尊重を主張し、個人の生命の質については本人の個人的決断を尊重するべきであるという意見に分けられます。
 後者の意見では、もし“生命の質”を維持し向上させる保証ができないならば、生命は生き続けるに値しないという立場がとられます。
 一方、人間の生命と、その質を尊重する行動基準を作成する試みもなされています。たとえば、カナダ司法制度改革委員会は、治療の中断と安楽死について、適切な司法的機関を設置することを主眼としたガイドラインを提案しています。
 そのガイドラインとは、生命の優先という想定、個人の主体性と自己決定権の尊重、生命の質と弱者の保護への配慮、というものです。
 池田 日本では、先ほど紹介した事件の判決のなかで、「医師による積極的な安楽死」が認められる要件が示されています。それによると、「積極的安楽死」が許されるのは、「患者が耐えがたい肉体的苦痛があること、死が避けられずその死期が迫っていること、肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと、生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること」というものです。
 また、諸外国の現状を見てみると、「安楽死」について繰り返し議論を重ねてきたオランダでは、「安楽死」に関するガイドラインが議会下院で可決されています。
 ブルジョ オランダの「モデル」には興味深いものがあります。オランダでは、医師が安楽死について守るべき行動規範として、医師に次の三つの義務を課しています。
2  一、患者への治療とその容体について他の医師の意見を求め、治療の術がないことを立証し、病院の責任者に通知する。
 二、患者に病状の度合いと、今後行える治療によってどういう結果が予測できるかを伝える。
 三、患者自身が安楽死を望む場合、それが繰り返し表明された要求であることを立証するために、それを正式な申請の形で受け取る。また十分な情報の蓄積のために、治療と患者の反応について「臨床日誌」に詳細に記録する。
3  倫理的なガイドラインとしての機能を果たすという意味で、これらにおおむね同意しますが、私はさらに次の点を加えたいと思います。
 医師が安楽死の実施を拒否する権利を認めること、自分の願望を表明する能力に欠ける患者についての安楽死適用の決定を裁判所にゆだねること、の二点です。
 池田 最近の欧米の議論を見ると、「積極的安楽死」について、患者の「自己決定権」の比重が高まり、全体として本人の意思が確認された場合、「安楽死」を容認する方向へと進みつつあるように思われます。
 しかしながら、仏法の基本から申し上げれば、「積極的安楽死」には否定的です。今日では、ペインクリニック(麻酔薬などを用い痛みをとることを専門とする診療)による痛みをコントロールする技術も発達しております。これですべての痛みがカバーされるわけではありませんが、だからといって「積極的安楽死」を肯定するのではなく、医学の進歩と家族や友人、医療関係者の努力によって、患者の痛みを取り除くケアを高めていく方向へと進むべきではないでしょうか。
 人間生命は、いかなる人といえども、“仏性”を内在し、それを顕現できる可能性を有していると仏法では説きます。「積極的安楽死」は、“仏性”顕現の可能性を奪ってしまう行為となりかねないゆえに、否定的にならざるをえないのです。
 ブルジョ 仏法の考え方は、よくわかります。

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