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日蓮大聖人・池田大作

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3 脳死をめぐって  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  「責任」と「連帯」こそ根本的倫理
 池田 ここで、「脳死」をめぐる具体的な課題に入りたいと思います。現代医学が生みだした「脳死」問題に、科学にとどまらず文学や詩、また人権、民衆の知恵をも織り込みながら、語りあっていきたいと思います。
 ブルジョ 「脳死」問題への序論的な意味で、科学技術にどのように対処していくべきか、ということについて述べさせていただきます。キリスト教の考え方についてはすでに述べましたので、西洋におけるもう一つの新しい流れについて話します。
 それは、「人間が自分自身の生命をコントロールしていくべきである」というものです。
 科学技術の発達によって、少なくとも理論上は、人間はみずからの人生のみならず、自然の支配者になる力をあたえられました。しかし、人類が科学の力によって自然や生命をコントロールする力をもった反面、そこに新たな「責任」が生まれたことを忘れてはいけません。
 池田 自己自身の人生への「責任」ですね。
 ブルジョ そうです。私たちの「責任」で生命に対する決断を行うべきであるというような立場をとれば、それを延ばすことにも「責任」がありますし、また、生命を終わらせる「責任」もとらなければなりません。また、そのほか、さまざまな「責任」を問われることになるでしょう。
 池田 釈尊も、仏法の根本精神を「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」(前掲『ブッダの真理のことば感興のことば』)と述べています。
 みずからをよく制御し、みずからの責任をもって人生を開発すべきであるとの言葉です。したがって、「死」についても、釈尊は述べています。
 「子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない」(同前)とあります。
 自分を救うのは自分である――ここに、仏法の「自己責任」の法理が示されています。
 ゆえに、みずからの「自由意思」によって、生命をどのように終わらせるか、また、どのように延ばしていくかという「責任」も、自分自身にあります。むろん、家族の同意を得る努力も必要でしょうし、友人や医療関係者との協調も不可欠です。しかし、決定の「責任」はあくまで自己自身にあります。これが、釈尊以来の仏法の考え方です。
 ブルジョ 私は、人生について三つの考察基準があると考えています。一つは、人生を「(神からの)賜りもの」と考えて生きることです。
 池田 キリスト教の立場ですね。
 ブルジョ そうです。次に、個人の「自由」と「権利」を標榜して、好きなように生きる。したがって欲望のままに生きるということになりましょう。
 池田 多くの現代人の生き方が、それに当てはまると言えるかもしれません。欲望に支配される人生は、結局、エゴイズムにおちいってしまいます。
 ブルジョ そこで、第三に、生きる「責任」を自分でもつということです。
 第三の場合は、第一と第二の考え方と比較して、人間の生き方と「生命の尊厳」が制約されているように思うかもしれませんが、私はそうは思いません。むしろ、その逆です。
 池田 博士の見解に全面的に賛成です。自己の「責任」をまっとうするために、自己を鍛え、コントロールしてこそ、生命はますます尊厳性を輝かせていくものです。
 第一の生き方――つまり、「生」と「死」を神の意志にまかせる生き方は、科学技術の発達によって、もはや不可能になったことはすでに語りあいました。
 第二の欲望――仏法的にいえば、煩悩のままに生きる人生は、「自由」のようでありながら、たんなる“わがまま”と放逸に流され、結局、自他の生命を破滅に追い込んでしまいます。
 私も博士と同様に、自己に「責任」をもった人生こそ「生命尊厳」の理念にかなった生き方であると思います。
 ブルジョ 私たちは、今後、個人の人生設計のよりどころとなる倫理規範を求めていくようになるでしょう。
 さらに、もう一歩進んで、すべての人が関与しあっていることを自覚し、その結果と責任とを分担し、連帯していくような、倫理規範がなければなりません。
 池田 「責任」と「連帯」こそ、人類の向かうべき根本的倫理規範です。
 仏典(「アングッタラ・ニカーヤ」)にも、「自己を護る人は他の自己をも護る。それ故に自己を護れかし。(しからば)かれは常に損ぜられることなく、賢者である」(『原始仏教の思想』上、『中村元選集』13、春秋社)とあります。ここに、「自己の責任」が「連帯」を求めるべき根拠が示されています。
 仏法では、「自他不二」と説きます。自己と他者は、相互に密接な関連性をもって生きている。“縁起の法”によって、たがいにつながっている。だからこそ、協力しあって、ともに幸福な人生を開拓すべきなのです。自分だけの幸福を求めても、それは不可能です。他者とともに幸福になろう――そのために、自己に「責任」をもつ人は、他者の人生にも「責任」をもち、「連帯」する義務があるのです。
 ブルジョ そこで「責任」とは何かということになりますが、私は、「責任とは、大胆な革新を拒否することではなく、それに付随するマイナスを極力抑え、できればマイナスの効果を生じないように事前準備を講じること」と、とらえています。
 池田 「責任」の的確な定義です。
 「脳死」という課題――新たな「死」の考え方を導入するにしても、そのマイナス面に十分な配慮を払わなければなりません。そこに、関係するすべての人々の「責任」がありますね。
2  「脳死」問題についての道徳的確信
 ブルジョ 生命の始まりと終わりについての臨床医学の探究は、今後、修正をみることはあっても、合理的・有効的な軌道を進んでいると思われます。その成果として、“回復不能”な昏睡状態は、「脳死」の兆候の一つであり、したがって、人間の終わりであり、その時点から治療を終了することが許され、臓器移植のための条件がととのったとされています。
 池田 現在の医療状況は、たしかにおっしゃるとおりです。
 ブルジョ しかし、このような死の兆候が、はたして合理的に、本当の死、ないしは少なくともそれに近いものと言えるのか――という疑念は消し去ることができません。
 現代において、少なくとも病院では「自然死」というものは考えられなくなりました。患者は「生命維持装置」を“取り外され”、死を迎えます。しかし、この装置をいつ外すのか、だれがそれを決めるのか、また何を理由にして、その死を正当化しようとするのか、どのような判定基準によって死の兆候を認めるべきか、さらにその判断基準、誤謬の許容値をどこに求めるべきか。多くの未解決の問題が残っております。
 池田 一般の人々の「脳死」問題への疑念の一つも、まさにそこにあります。
 ブルジョ そこで、この数百年の間に欧米の哲学者の間で共通に使われるようになった“道徳的確信”ということについて述べてみたいと思います。それは、「当面する問題について、知りうるかぎりの要素をすべて解明しようと誠実な努力を尽くし、十分な配慮もした結果、得られた信念」と言えましょう。つまり、最善を尽くしたことに基づく信念であって、必ずしも「絶対的な確信」ではありません。
 “死とは何か”“いつの時点で「死んだ」とするのか”。この二つは相関する重要な問題です。しかし一方で死との闘いをいつ中止すべきか、さらには、いつ臓器摘出を行うかの決断を、医療関係者は日常的に迫られているのです。つまり、私たちは前者の問いに確信をもって答えられないまま、後者に対する回答として医療現場で便宜上、死の判定基準を決定しているのです。
 池田 「脳死」の判定、ならびにその時点での臓器移植を受け入れるかどうかは、先ほど私たちが論じたみずからの「責任」で決定すべきことではないでしょうか。
 そのために、日本でも、ドナーカード(死後の臓器提供に対する意思表示を記した携帯カード)がつくられております。家族の関与のしかたについては、まだ議論が行われています。
 そこで、私たちや家族が「脳死」判定を受け入れるかどうか、また、臓器摘出を受け入れるかどうかという点で、“道徳的確信”が要請されるわけですね。マイナス面を未然に防ぐために――。
 ブルジョ そうです。カナダでは、「脳死」の定義が医学界および法曹界で受け入れられ、その時点での医療の中止が容認されています。また、この時点で家族の同意があれば、臓器摘出が可能になります。ただし、それ以前に、脳活動は脳幹(脊髄と大脳とを連絡する生命維持に重要な自律機能を調節する部分)を含めて、すべて停止していなければなりません。
 池田 日本の場合とは、“判定”基準に若干の違いはあるかもしれませんが、「脳幹」を含めて、全脳の機能の停止によって、「脳死」であると判定する
 点は、同じです。
 ブルジョ しかし、ここで言われる「脳死」の定義には、不確実な要素もあります。私たちはもっと、“確実な”定義を追究する必要があることは、否めません。しかし、私たちには行動をとらなくてはならない必要性もあり、私は「脳死」による死の判定は合理的であり、有用でもあると考えます。
 池田 私も「脳死論」の中で、「判定」基準のさらなる精密化を求めました。そのうえで、「全脳」の機能が「回復不能」――つまり「不可逆である」と判定されたならば、社会的な制度として「脳死」による判定を容認してもいいのではないかと論じました。
 つまり、博士の示された「生命の段階」で言いますと、「第一段階」の状態をも、現代医学の力では保つことができない、つまり、「不可逆である」という状態におちいっているということです。
 先ほどの「九識論」で言えば、「五識」「意識」はおろか、「末那識」、また、身体の統合力も、「不可逆」的に消失している状態をさします。
 ともあれ、今後とも、種々の観点からの論議を積み重ねていき、人々が納得できる“道徳的確信”の形成が期待されます。
 そうした努力を続けることを前提として、「脳死」問題へのかかわり方は、「生命の段階」説や仏法の考え方などから学び、熟慮しながら、あくまで自己の「責任」と「連帯」という倫理規範にのっとって、決定すべき事柄でしょう。
 また、脳死者からの臓器移植についても、同様に熟慮を重ねていくべきではないかと考えます。
 ところで、カナダでは実際に移植医療は進んでいるのでしょうか。
 ブルジョ 移植のための臓器提供は、カナダでは広く受け入れられるようになり、一九九一年の統計によれば、腎臓移植が八百件以上、腎膵臓移植が五件以上あり、心臓移植百四十四件、肺移植五十八件、心肺移植十件、また肝臓移植百七十四件が記録されています。
 池田 欧米では、すでに二十年以上の歴史をもつ脳死移植は、かなり技術的にも向上しているようです。移植における最大の難点である「拒絶反応(免疫系が移植された臓器を異物とみなし攻撃すること)」を抑える新しい免疫抑制剤(免疫系の拒絶反応を抑える薬)も開発され、現在では移植を受けた人の多くが健康を取り戻し、社会生活を営むことができるようになっています。
 しかし、日本では臓器移植法の施行後も、一年半近く、脳死者からの臓器移植は行われませんでした。脳死が広く社会的合意にいたっていなかった点や、死体を生きた身体と同一視する日本人の独特な身体観によるものだったと思われます。
 また、本人が生前、臓器提供の意思をもっていたことが確認された場合でも、家族の反対によって実施が取りやめになったケースもあります。
 ブルジョ カナダでも、臓器提供者は生前、臓器提供の希望があることを自分の意思として明言するか、文書にし、その上で家族等がこれに同意することが明確にされなくてはなりません。
 しかし、個人の尊厳と友愛主義との観点から、キリスト教では臓器移植を大幅に容認しており、この立場をとる人々は、死に直面してもなお、だれかの「役に立とう」とした故人の遺志を受け継ぐことで、「死」の悲しみを乗り越え、慰めを得るのです。
 池田 脳死や臓器移植の問題については、日ごろから、各人が自分自身の問題として考え、家族もまた当人の意思を尊重する配慮について話しあうことが大切ですね。
 欧米のような移植医療の先進国も、社会的合意にいたるまでには年月をかけ、多方面の議論を重ねて、今日の医療を実現してきたことを考えると、日本ではまだまだそうした議論が深まっていないようです。
 ブルジョ 現在、移植医療について、国際的な情報のネットワークもできあがり、移植を待つ人々への臓器提供が始まろうとしています。
 しかし、こうした一方で、臓器移植の否定的な側面を私は忘れてはならないと思います。
 たとえば貧しい人から臓器を摘出し、商業目的のために利用する可能性も考えられます。少なくともカナダにおいては現在までのところ、そのような事態の発生や兆候は現れていませんが。人間の身体に対する危険な行為、臓器や細胞の商業的利用は法律で禁じられています。臓器移植は実施する上で複雑な要素をはらんでおり、関係者は多数におよびます。したがって、これらは制度上の問題として徹底的な議論が必要です。

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