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2 死の定義  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  「死」を忘れた文明は「死」に反撃される
 池田 次に具体的に「死」の問題をめぐって、博士と語りあいたいと思います。
 日本では、一九九七年、国会で臓器移植法が成立し、九九年三月、脳死患者からの臓器移植が三十一年ぶりに行われました。国内の第一例は六八年に行われていますが、この移植手術には多くの点で疑問が寄せられました。
 このため、日本では脳死者からの臓器移植が進まなかったとも言われております。
 しかし今回、脳死者からの臓器移植が再開されたことによって、脳死や尊厳死への関心が高まっています。そこで、人間生命についてのさまざまな倫理的課題を考える基盤となる「生命」について、また、“死生観”に焦点を当てたいと思います。
 ブルジョ 賛成です。この二十年間、アメリカ、カナダにおける「生命倫理」の研究は、実際的な問題への取り組みに追われ、“人間の生命とは何なのか”というきわめて重要な論議を十分に尽くすことを避けてきました。今一度、人間の「生」と「死」について真剣に討議しなければならない時期が到来していると思います。
 池田 鋭い洞察です。私も、ハーバード大学での講演(「二十一世紀文明と大乗仏教」、一九九三年九月。本全集第2巻収録)で、“死を忘れた文明”といわれる近代について警告しました。「死」の忘却は、「生」の探究をもおろそかにしてしまうものです。
 “生死”という人間の最大の重要事を、これまで現代人は忘却してきました。博士がいみじくも指摘されたように「避けてきた」のです。しかし、「死」を避けては、逆に「死」から反撃されます。二度の大戦をはじめとする、二十世紀の“大量死”がその一つの証です。
 「死」を避けることは、生命の軽視を引き起こします。現今の目にあまる暴力の横行もそうです。
 ブルジョ 「生命倫理」を探究するものとして、現在、非常に重要な課題が山積していることを実感しております。
 池田 博士は日本での講演「科学技術と人類の責任」の中で、「現代の科学技術の発展は、地球環境だけでなく、人間生命までも変化させる時代を生み出した」「生命操作は、最近まで、ごく一般的に考えられてきた『生死の限界』さえ、認めようとしなくなっている」と指摘されておりましたね。
 ブルジョ そのとおりです。臨床医学の発展によってもたらされた医療技術の威力には、底知れないものがあります。ある意味では、それは人間の生命の「始まり」から「終わり」までを、すべてコントロールしようとしているかのようにさえ見受けられるのです。
 池田 現代の医療技術の進歩は、私たちに、あらためて人間の「生」とは何か、「死」とは何か、との問題を突きつけてきました。
 ブルジョ 私は西欧キリスト教文明の伝統のなかに生まれ育ちました。ですから自身の文化的背景に、キリスト教があることは否めません。
 しかし、仏法も同じでしょうが、そういう伝統のなかに、すばらしい考え方、逸話など豊かなものが存在します。そこには、人生、そして、「生きる意味」を明確にする手がかりが、たくさんあるはずです。
 会長には、これに関しての仏法の考え方についておうかがいしたいと思います。仏法とキリスト教の比較、照らし合わせができる機会を待ち望んでいました。
 池田 私も、同じ気持ちです。
 ブルジョ 会長の「脳死論」を興味深く拝見しました。仏法における、人間の「死」についての考え方を学ばせていただきました。
 池田 博士に読んでいただき、感謝します。
 “脳死”そのものについては、後ほどふれることにして、人間の「死」に関して、キリスト教では「神」の意志によると教えていますね。
 ブルジョ ええ。「主はわれらに命を与え、召される」、このような祈りが、臨終のときに唱えられます。
 池田 人間生命は、「神」によって与えられたものであるから、死も「神」の意志によるということですね。
 ブルジョ そうです。この世界は「神」の意志によってつくられたと思われていた時代にあっては、「神」が立てた計画に対しては、人間は従うばかりで、何者も口をはさむ余地はなかったのです。
 つまり、生命は私自身のものではない。神から贈られたものである。だから、私たちが自由にそれを終わらせたり、引き延ばしたりするべきではないというものです。
 池田 しかし、今日では、すでに人間の“生死”に医学が深くかかわってきています。
 「死」の場面でも、人工呼吸器がつけられたり、ICU(集中治療室)に入ったりします。
 人工呼吸器などは、昔なら死にいたっていた「生命」を生かすこともできます。そうした延命効果はあるわけですから、現代医療を拒否するわけにはいきません。要は、どのように医学の力を賢明に活用するかということです。
 そこで、あらためて人間の「死」とは何かということが課題になってきました。
2  人間の「死」を考える生命の三段階
 ブルジョ 西洋の伝統的なとらえ方では、生命にいくつかの段階があるとしています。それぞれの段階については、この問題を専門的に研究している学者たちの間で、今もさかんに論議されています。
 簡単に説明しますと、感受性や意識はないが、「呼吸」や「血液循環」といった基本的な生体の諸機能が持続している状態、これを「生命の第一段階」とします。
 次に「生命の第二段階」とは、「感受性」が働いている状態です。他者との意思疎通はできないものの、苦痛などに対して反応できる状態をさします。
 そして、「生命の第三段階」とは、「意識」のある状態です。言葉や身振りなど、あるいはそれ以外の手段で、他者との意思疎通ができる状態です。
 ここにあげた「生命の三段階」に関しては、会長が著作などで示されている仏法の伝統的な考え方に相通じる面があると思いますが、会長のご意見はいかがでしょうか。また、異なった面も含めて、お話しいただけますか。
 池田 博士があげられた「生命の三段階」に関連すると思われる、仏法の法理をあげたいと思います。
 ブルジョ そういう点を知りたいのです。ぜひお願いします。
 池田 いわば仏法の認識論からの生命の本質へのアプローチです。
 まず、眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)という五つの感覚器官の外界とのかかわりを「五識」とします。
 その五識の背後に、それらを統合する心の働きとして第六識を立てます。これは「意識」と呼ばれます。西洋の心理学での「意識」と似通っています。
 さらに、仏法は、その奥に、無意識のうちに働いている“自分らしさ(アイデンティティー)”にかかわる自己保存・自己拡大の働きを見いだします。
 西洋心理学で言う「自我(エゴ)」に相当するものと言えるでしょう。これを第七識とし「末那識」と呼びます。
 そして、さらにこれらの識を根底から支えるエネルギーを蓄えた第八識を考えます。
 エネルギー源は、動作(身業)、発言(口業)、思考・感情(意業)といった行為(業)です。これを身・口・意の三業と呼んでいます。これには、意識的なものも無意識的なものも含まれます。
 無意識のうちに受けとめたものが含まれますから、ユングのいう「集合的無意識(無意識層深層にあるとされる人類に共通する普遍的無意識)」に相当するものも含有することになります。
 この第八識は「阿頼耶識」と呼ばれます。
 「阿頼耶」とは、梵語で貯蔵庫の意味です。それゆえ「蔵識」とも訳されます。
 さらにその根底に、根源の生命力である「第九識」を立てます。この「第九識」を「根本清浄識」とも言います。
 博士のおっしゃる「三段階説」とは、ほぼ「第七識」までのレベルでの対応が考えられますね。
 ブルジョ 具体的にはどのように対応すると思われますか。
 池田 つまり、感受性も意識も働いていない「生命の第一段階」は、呼吸や血液循環の働きはあるものの、意識はない。したがって、無意識の状態である「第七識」以下に生命活動が引きこもった状態と言えるでしょう。
 「生命の第二段階」は、苦痛などに反応するけれども、意思疎通などができない段階ですね。そうしますと、自己保存の「第七識」が活発に働き、「五識」「六識」も、それなりに働いているものの、まだ受動的で主体性がないと言えるでしょう。
 「生命の第三段階」では、外界と積極的・主体的にかかわっていける状態です。「五識」「六識」が十全に働いている状態と言えます。
 ブルジョ 西洋諸国では、人間が考えたり意思決定・意思疎通できる能力がなくなった段階で、“人間として生きている”とは見なされなくなるのが、一般的な見方です。
 池田 つまり「生命の第三段階」では、「人間」として生きているが、「第一・第二段階」では、「人間」として生きているとは見なされないということですね。
 ブルジョ もちろん、意識や判断能力がないからといって、生命の存続まで否定するものではありませんが、西洋では、生命の段階をこのように区切って見る傾向があるようです。したがって、脳死状態におちいった人から臓器を取り出すことも、一つの合法的な選択肢として比較的容易に合意されてきたと言えます。
3  生命を連続的プロセスとみる生命観
 池田 先ほどの九識論には、動物と人間の間に差別をつける指向性はありません。仏法では、人間の「死」を、意識のある「第三段階」、無意識ではあるが、外界に反応する「第二段階」、そして深い昏睡におちいり、すでに外界との対応がなくなった「第一段階」へと、しだいに移っていくプロセスとして、連続的にとらえています。
 したがって、「第三段階」から、「第二段階」へと移った「時点」で、すでに人間でなくなったとはとらえません。この点が、仏法と博士の紹介された西洋思想との違いですね。
 ブルジョ 現在、欧米でも「生命の段階」には、“連続性がある”という見方が浸透してきています。つまり、“生命がいかなる段階におちいっていようと、その生命は守られるべきだ”という考え方が重視されるようになってきました。
 池田 仏法の考え方と一致する方向です。仏法では、心が「末那識」(深層意識)の状態になっても、その人は生きており、外部からわからなくても、外界の情報を受け、喜んだり、悲しんだりしていると考えています。
 親しい看護師さんからよく聞く話ですが、昏睡状態にあった患者さんでも、やさしく声をかけたり、また、幼いころに好きだった音楽をかけてあげると、「意識」を回復してから、お礼を言われて、驚くことがあると言っていました。
 反対に、もう“死”の領域に入ったのだからと機械的になったり、冷たくしたりして――そんな人はいないと思いますが――、その後、「意識」が回復して、指摘されたりすると、身の置き場に困ることになりかねません。(笑い)
 ともあれ、こうした体験なども、「生命の段階」を連続的にとらえる方向を示唆しています。
 ブルジョ 「生命の段階」には“連続性がある”とする考え方は、西洋と東洋の伝統的な思想を結びつける接点となる新しい考え方と言えますね。
 池田 未来の「生命論」の方向性を示す卓見です。二十一世紀を目前にして、生命を「連続的プロセス」としてとらえるという共通する見方が出てきたことは、非常に興味深いことです。
 ところで、西洋でこのようなとらえ方が生まれてきた理由は、どこにあると思われますか。
 ブルジョ 私たちが、なぜこのような考え方にかたむいてきたかというと、それは人間が置かれている生態的状況や環境から受ける影響に対する認識が高まってきたからにほかなりません。
 池田 なるほど。仏法では、「人間」と「環境」は一体であるととらえています。
 ブルジョ 換言すれば、人間だけが特別の存在なのではない。この地球上の動物や植物と同じく、人間も地球生態系の一部であるという認識が強まってきたのです。
 ですから、先ほど述べた人間における「生命の段階」は、たんに生の状態を識別するための線引きの方法であって、それぞれを切り離すべきではないと考えるようになったのです。
 池田 地球上におけるすべての生命への視野の拡大が、これまでよりもいちだんと深い生命観を生んだと言えますね。
 仏法では、人間の「死」とは、博士が言われた生命の「三つの段階」を通って、やがて、生命の深層領域である「阿頼耶識」が宇宙生命そのものへと融合していくととらえています。その死へのプロセスのなかに、「脳死」も位置づけられると言えましょう。

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