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日蓮大聖人・池田大作

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7 “理想の人生”について  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  民衆を救うために戦った改革者たち
 池田 これまで真実の“健康”を求めて種々の角度から語りあってきました。そこで「健康と調和」の章の最後に、人間の生涯として、最高に健康な生き方とはどのようなものか――つまり、“理想の人生”について語りあいたいと思います。
 お聞きしたいのですが、博士は、どういう人物が理想的な人生を生きたと思われますか。
 ブルジョ 私の専門は生命倫理で、教育が倫理と非常に深い結びつきがあることもあり、すぐに想い浮かぶのはソクラテスとイエス・キリストです。二人とも、倫理哲学者であり教育者です。同時に心に浮かぶ人物です。
 ガンジーやマーチン・ルーサー・キングもその部類に入ります。これらの人物を見ると、いちばん印象に残っているのは、要するに改革者であり、その時代の権威・権力に抵抗する立場をとった人間であったということです。
 池田 ソクラテスは法に殉じて、毒杯をあおっていますし、イエス・キリストは、巨大なローマ帝国と対決して、十字架にかかっています。マハトマ・ガンジーもキング博士も、非暴力の立場をかかげて、暗殺されましたね。
 ブルジョ この人たちは、権威・権力を批判すれば、どうなるのか、はっきりとわかっていましたし、自分自身が権力への抵抗を続ければ、どうなるのかをはっきりと自覚していたのです。
 池田 民衆を救うために、既成の権威・権力と戦った改革者という共通の側面に注目される。そこに、博士の慧眼を見ます。
 ブルジョ 私のほうからの質問ですが、仏法の伝統のなかで、会長がとくに着目される人物はどういう人ですか。
 池田 広く言えば、マハトマ・ガンジーも仏法の精神を体現した人物です。多くの私のインドの友人は、当時、世界最大の帝国であったイギリスに対して、非暴力(アヒンサー)で戦ったガンジーの精神は、二千五百年前に、堕落した支配階級のバラモン司祭と戦った釈尊の心を引き継いでいるととらえておりました。私も仏法者として賛同しました。
 仏教史の流れでいえば、日本では、私たちが信奉する日蓮大聖人が、仏法の精神を最大に継承しております。十三世紀に、日蓮大聖人は、何ら権威や後ろ楯をもたず、当時、民衆に絶大な権力をふるっていた鎌倉幕府に対して、「立正安国論」という諌暁書を送りました。
 ブルジョ それは、どのような内容の書なのですか。
 池田 生命尊厳の“法”を根本としない指導者であれば、人々は苦しみ、災難が起き、社会は崩れてしまう。
 それを防ぐためには、“法”にのっとり、民衆の幸福を根本とした政治が要請されることを訴えたのです。
 ブルジョ 当然、権力者の迫害にあったのですね。
 池田 そうです。日蓮大聖人は、この諌暁書の提出以降、幕府からの弾圧を受けることになりました。謀略による罪で捕まり、裁判も経ないで死刑にされそうになったり、極寒の地に流罪にされたりと、命にかかわるような迫害に何度もあわれました。
 そうした迫害にも、一歩も退くことなく戦い続けられた日蓮大聖人に対し、とうとう幕府は、大聖人の流罪を解いた。それは、大聖人の警告を聞かざるをえない状況となったからです。日本国内では内乱が起き、また、世界史上に知られる蒙古の日本襲来が始まろうとしていました。
 流罪の地から鎌倉に戻られた大聖人の言葉に次のようにあります。「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」と。
 汝らは権力者である。日本国に生まれた自分を処刑し、流罪することも、また許して自由にすることもできよう。しかし、心を縛ることまでは絶対にできない。断じて権力者の奴隷にはならぬ……この叫びは、まさに大聖人のご生涯の一つの核心を凝縮した言葉だと思っています。
2  もっとも生命を尊ぶ生き方
 ブルジョ 社会環境は、「心の自由」を助長する場合もあれば、圧迫する場合もあります。しかし、いかなる強制によっても、「心の自由」を服従させることは決してできません。
 池田 そうです。この言葉は、「世界人権宣言」二十周年を記念して、ユネスコが編纂した『語録人間の権利』にも収められています。
 どんな絶大な権力も精神までは縛れない。自由の叫びを抑えきれません。
 世界のさまざまな識者にこの言葉を紹介しておりますが、今、世界の多くの人々は、大聖人の生涯に「人類のための人権闘争」を見ています。
 この大聖人の戦いを継承し、民衆運動として現代に展開したのが創価学会の牧口初代会長であり、私の恩師である戸田二代会長でした。
 ブルジョ 学会の歴代会長が、戦時中の国家権力と戦いぬかれたことはよく存じております。
 池田 この二人は、国家権力によって戦時中、戦争遂行をもくろむ権力に抗したため、治安維持法違反と「不敬罪」という罪で投獄され、初代会長は秋霜の牢獄で獄死されました。
 それでも、初代会長は家族へのお手紙に「地獄に居ても安全です」(『牧口常三郎全集』第十巻)と、権力への抵抗をやめることはありませんでした。
 また、同じく獄中にあった戸田会長も、初代会長の遺志を受け継ぎ、戦後の焼け野原に一人立ち上がり、民衆のために尽くしてこられたのです。
 ブルジョ 生命はいちばん基本的な価値である、ということを口にする人はいくらでもいます。しかし大切なのは、どのように生きていくことが、もっとも生命を尊ぶ生き方になるのか、であると思います。
 ソクラテス、イエス・キリスト、ガンジー、マーチン・ルーサー・キングらは、自分の命よりも、生きる意義を重要視しました。そして、人々のために献身しました。それは、“殉教”と言ってよいものです。
 池田 宗教の根本精神は、“殉教”にあります。博士の言葉は、まさに至言です。感銘しました。
 日蓮大聖人は、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」と言われ、大宇宙を満たし尽くすほどの宝物でも命の価値にはおよばないとされ、生命の尊厳を徹底して説いています。
 そのうえで、“魚が捕られまいと深い池の底に住んだとしても、かえって餌に釣られてしまう”ように、“人間は命をもっとも惜しむがゆえに、低次元なことでわが身を滅ぼしてしまう”とも言われております。つまり、自身の生命を大切にするあまり、わが身の保身に重きを置くことで、欲望や権力にとらわれ、かえってみずからの命を奪うことにもなってしまう。その利己主義の愚かさの一面を指摘されています。
 ブルジョ よくわかる譬えです。
 池田 それでは、何を基準に生きていくことが、生命の尊厳につながっていくのかという問題になります。
 日蓮大聖人は「身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる」と述べられています。
 仏法でいう布施とは、法を根本として他者のために奉仕する行為をさします。他者の生命を守る闘いが、自他ともに生命の尊厳を輝かせる大道であると説かれているのです。
 他者の苦しみを救い、人々に尽くし、よりよい社会、よりよい世界のために尽くしていくという現実の行動こそが最高に尊いのです。
 その途上においては、当然、民衆を権力欲や支配欲によって抑圧しようとする勢力との軋轢が生じてきます。熾烈な権力の魔性との闘争のなかでは、生命が失われることがあるかもしれない。“殉教”です。しかし、世界の平和と公正さと人権のための命を賭した闘争のなかにこそ、人間としての本来の生き方があり、生命力が最高度に発現しゆく、理想的な健康体の輝きがあるのではないでしょうか。
 仏法では、このような人間の生き方を“菩薩道”としております。この章の冒頭で、紹介した維摩詰菩薩の生き方にも象徴されております。また、仏法では菩薩の“殉教”についても述べられております。
 ブルジョ それが創価学会の歴史と哲理ですね。
 池田 そのとおりです。

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