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『法華経』に説かれる「開示悟入」の法理…  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 最後に、私は、教育すなわち“教え育むこと”の原点として、仏が衆生を導く姿に言及したいと思います。
 大教育者であった牧口会長がなぜ『法華経』の教えに入り、「創価教育」を築いたのか。それは「美」「利」「善」という「人格価値」を一人一人の内側から引き出す鍵を、『法華経』の法理に見いだしたからでもあります。
 『法華経』の方便品では、一人一人に具わる“内なる尊厳”を開き、その力を発揮させることこそ、仏がこの世に出現した究極の目的、すなわち「一大事因縁」であると説きます。
 同品では、さらに、仏の出現の目的を「開示悟入の四仏知見」として説いています。人々に対して、各々に具わっている「仏の知見」を「開」かせること、「示」すこと、「悟」らせること、現実に仏の道へ「入」らしめること、この「開示悟入の四仏知見」こそ仏の究極の目的なのです。
 「仏知見」とは、すべての人に内在する、仏の生命(仏性)に具わった智慧の働きを指します。慈悲に輝く偉大なる智慧こそ、「仏知見」なのです。
 アタイデ 仏教の根本に関する池田会長の教えは、私にインスピレーションと活力を与えてくれるものです。
 池田 「開示悟入」について、さらにくわしく説明させていただきます。
 まず「開」ですが、仏がこの世界に現れた目的は、すべての人々の生命の“扉”をあけ、「平等」に具わった「仏知見」を、「開」き顕すということです。
 「示」とは、仏がすべての人々に内在する「仏知見」を「示す」ことであります。教師としての仏の智慧と慈悲にふれさせ、それらが衆生自身に厳然と在ることを、「示」し教えるのです。
 「悟」とは、みずからにも仏と同じ智慧と慈悲があることを覚知し、体現していくのです。仏典には「師弟感応かんのうして受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり」(「御義口伝」)とあります。師と弟子の生命が感応するところに、衆生は仏と“平等”の「知見」を覚知するというのです。
 そして、「入」とは、衆生自身に具わる仏の智慧と慈悲により、人間完成への最高の道へと入ることをいいます。
 すべての人々を「平等」に、勇気と歓喜の生死――生と死をも乗り越えていく絶対的幸福境涯に導くことこそ、仏の「一大事因縁」なのです。それは「教育」の究極の目的とも合致するものです。
 このように考えるとき、『法華経』の教説と「世界人権宣言」に示された精神は、人類普遍の“内なる尊厳”に立脚し、その本性を自由自在に開き、発揮させることをめざすという点で共鳴しあっているといえましょう。
 アタイデ 池田会長は、あらゆる差別から解き放たれた、自由なる精神が横溢する人権の尊さを、つねに肯定することをめざされています。なぜならば、あらゆる差別から解き放たれた自由によってのみ、老若男女は、仏教でとらえるところの正しい人権を獲得できるからです。
 池田 鋭き洞察です。“内なる尊厳”=仏の生命をみずから開くことができるゆえに、すべての人々は「平等」に仏になりえるのです。そこには、いかなる差別も存在しません。
 それゆえ、方便品では「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめん)――仏と衆生は「平等」で異なることはない――と説き、つづいて譬喩品では、仏みずからすべての人々を「皆是れ吾が子」と呼ぶのです。仏はすべての人々を“侵すべからざる尊厳なるもの”として大切にする。ここに人間尊厳の究極の“不可侵性”が示されます。
 すべての人々が、すばらしい未来を開きゆく豊潤な可能性をもつ――その可能性を存分に発揮させるために、「世界人権宣言」に指し示されているように、互いに「尊厳」と「平等」を認め合い、それぞれの「自由」を保障していくことが肝要といえましょう。
 冷戦の終結以後、残念なことに、世界の各地で、偏向したナショナリズム(国家主義、民族主義)、レイシズム(人種差別)の過激な活動が勃発しています。まさに今こそ、「世界人権宣言」の「第一条」に象徴的に示されているように、「良心」と「理性」に輝く“内なる尊厳”への尊重と、そこに立脚する人権の擁護が切望されていると確信します。

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