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日蓮大聖人・池田大作

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「三世間」と「依正不二」の法理からみた…  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 人類の人権史の潮流をみますと、「第一世代の人権」の基盤として「第二世代の人権」が、また「第一世代」「第二世代」のさらなる基盤として「第三世代の人権」が取り上げられ、人権の基盤がより広く、より深く拡張されてきているように思います。つまり、一個の人間の尊厳のために、その社会的地位の尊重が求められ、さらにその人の生きる文化・社会環境や自然環境の尊重をも求められるようになってきているのです。
 仏法には「三世間」という考え方がありますが、この思想は、ある面では個人と社会・環境との関係を論じたものであり、人権の深化・拡張の哲学的基盤となる法理とも考えられます。
 「三世間」とは、「五陰世間」「衆生世間」「国土世間」の三つです。ここで「世間」とは“相違”を意味します。
 五陰とは、人間を形成する五つの要素のことです。つまり、目に見える姿形、肉体的要素である「色」、感覚、感情、意志など精神的側面である「受」「想」「行」「識」です。
 人間生命の肉体的・精神的側面には種々の違いがあるというのが、「五陰世間」です。しかし、五陰世間を観察するのは、違いを認識するのが目的ではなく、むしろ、現実の姿は異なるとはいえ、その本質・本性に「仏性」が普遍的に輝いていることを知る点にあります。
 つまり、「五陰世間」は、あらゆる生命の本質が「平等」「尊厳」であることを説いています。これは、「世界人権宣言」の前文と、人権の基礎を定めた第一、二条に深くかかわるものであり、まさに人権の基盤を構成しています。
 アタイデ 仏教は人間がいかにして平等、自由、愛情によって生きていくかを教えてくれています。現在まで、いかなる教えも、信仰と希望とで成り立つ仏教の教義を超えたものはありません。仏教思想によってこそ、来世紀を人権の世紀とすることができるでしょう。
 池田 次に「衆生世間」とは、五陰によってつくられた個々人の違いです。個々人には人種、性、門地、社会的地位などさまざまな違いがありますが、そのことに相当するでしょう。仏法は、そうした表面的な違いへの執着を超え、「自由」なる境地をめざすものです。
 これは、「自由権」を主張した第三条から第二一条までの「第一世代の人権」に関するものといえましょう。
 最後の「国土世間」ですが、これは衆生が住む環境に種々の違いがあることをいいます。この衆生と国土の関係は、「正報」と「依報」の関係としてとらえられます。「正報」とは、衆生の生命主体であり、「依報」とは、衆生が「依りどころ」とする環境です。人間は、環境に働きかけて、その環境を破壊することも、創造することもできます。また、人々の肉体・精神の両面にわたる「人となり」は、その環境に育まれて、形成されてくるものです。
 ここでいう「国土」とは、衆生の住むあらゆる環境であり、人類の生存を支える自然環境をはじめ、私たちの心身両面の生命全体を育むものすべてが「国土」となります。
 つまり、それぞれの民族や人種が、これまで築き上げてきた文化的・社会的環境も、重要な「国土」の要素となるのです。
 アタイデ 各国家は、社会状況も生活環境もじつに多様ではありますが、国民をそのアイデンティティーに一直線に従属させるものがあります。たとえばブラジルは深い“根”においてつねにブラジルであり、同じように日本もまた、国家の尊厳を根拠づける“根”において、つねに日本であります。
 池田 先ほども引いた『維摩経』で、釈尊は菩薩の住む「国土」について言及し、「衆生という国土こそ、じつは菩薩の仏国土なのである」と述べています。菩薩にとっての「国土」というのは、衆生であるというのです。
 そして、「直心(まっすぐな求道心)」「深心(いちだんと深い求道心)」「菩提心(悟りを求めようとの発心)」、六波羅蜜、四無量心など、菩薩として衆生のために尽くす種々の振る舞いこそが、菩薩を養い育むものとされているのです。このように、仏法の「国土」は、文化的・社会的土壌をも大きくつつみこむ概念なのです。
 アタイデ 私たちは、仏法という、東洋なかんずく日本の偉大な智慧の教えを知ることができました。ただ、残念なことには、永遠に仏法の信仰と希望が息づく場所――日本の輝かしい文化や美しき自然の価値について、私は正確な知識をもっていません。
 池田 仏法の正統を確立された日蓮大聖人が聖誕された日本で、長い間、仏法の正しき教えが見失われてきたことは残念です。しかし、仏法は、一国のものではなく、全世界の全人類のものです。
 大聖人は、「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(「一生成仏抄」)と述べられています。人々の精神の充足・成長なくして、真に人間らしい豊かな社会の実現はない。これは敷衍していえば、社会的環境を形作る人間精神の深い涵養をめざす言葉といえましょう。
 アタイデ 世界の民衆は、人種の違い、社会・政治の違いから生ずる差別意識を乗り越えて、池田会長の教えを学び求めているのです。会長の妙なる提言は希望の夜明けをもたらすだけでなく、われわれの眼前に現実となって現れると確信しています。
 池田 仏法では、人間とその環境、すなわち「正報」と「依報」は、二つに分けられるが、本来、一体で不可分であることを、「依正不二」と説いています。そして、その根源には、宇宙と三世をつらぬく“普遍の妙法”があることを明かしています。
 このような考え方は、西洋にも見受けられます。フランスのジャック・マリタン氏は、人権を担う人間を「開かれた一つの全体」と位置づけています。人間は宇宙の“普遍的なるもの”を欠けるところなく具えた「全体」であるとし、個々の人間を「一つの全体」と考えるのです。さらに、「一つの全体」である一個の人間は、小さく閉じたものではなく、人間相互はもちろん、宇宙をつらぬく“普遍的なるもの”に「開かれた」存在であるととらえています。
 仏法においては、人間は“普遍の妙法”を欠けることなく具えた存在であり、“普遍の妙法”は、人間とその依りどころである環境を離れては存在しません。ゆえに、すべての「人間」は“平等なる尊厳性”を本来的に具えているのです。
 こうした仏法の法理と実践は、「第一世代の人権」(自由権)を支える「第二世代の人権」(生存権、社会権)を守り、さらに「第三世代の人権」の獲得へと向かう大きな力となりうると確信します。
 アタイデ 人間が世界のどこへ行っても「ここが自分の心の故郷だ」といえる時代が来るよう努めねばなりません。
 池田 会長は、人類の融合と調和のために、幾重にも文化と友好の橋を架けられている。そうした人々のネットワークのなかに確たる平和が築かれると思います。

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