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日蓮大聖人・池田大作

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民衆のために尽くす維摩詰の実践  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 人類のために誠実を尽くされる、総裁の行動に思いをめぐらすとき、私の心に『維摩経』に展開する情景が浮かんできます。
 この経典には、仏の十大弟子や錚々たる菩薩たちが、在家の仏教指導者であった維摩詰の病気見舞いに行くよう、釈尊から命じられたときのエピソードがつづられています。弟子たちは、自身の最も得意とする分野で維摩詰にやりこめられた経験があり、見舞いに行くことを尻込みする。維摩と釈尊の弟子たちとのやりとりは、ウィット(機知)に富んだ楽しいものです。
 経典というと堅苦しくとられがちですが、まるでドラマのような展開になっています。だれもが共有すべき偉大な真理は、わかりやすい表現で語られるものです。
 アタイデ 同感です。池田会長とトインビー博士の対談を読むとき、それをよく理解することができます。
 私たちは、仏教をつらぬく「反差別の精神」に大きな信頼をいだいています。老若男女を問わず、だれもが仏教の明快な教えによって、「真に新しいものが、人類に偉大な未来を開いている」ということを、自身の魂の奥底で実感することができます。
 池田 だれもが尻込みするなかで、いまだかつて維摩詰に会ったことがない池田文殊師利菩薩が、見舞いに行くことになります。文殊は、釈尊の後継者と目され、「法王」である仏を継ぐものとして、「法王子」と位置づけられる菩薩です。
 文殊が、維摩にお見舞いの言葉を告げ、病気の原因、患っている期間等を尋ねます。
 それに対して、維摩はこう答えるのです。
 「マンジュシリー(文殊師利)よ、世の中に無知(無明)があり、存在への愛着(有愛)があるかぎり、私のこの病いはそれだけ続きます。あらゆる衆生に病いがあるかぎり、それだけ私の病いも続きます(=衆生病む故に我病む)……金持ちのひとりっ子が病気になったとき、その病気のせいで両親も病気になるようなものです。ひとりっ子に病気がなくならないかぎり、両親もなやみ続けます……それと同じく菩薩はあらゆる衆生をひとりっ子と同じように愛する……菩薩の病気は大慈悲から生じるのです」(『大乗仏典・維摩経』中央公論社)
 一切の衆生をかけがえのない後継者である“ひとりっ子”のように愛し、心を遣うのが、菩薩の実践である。文殊自身が後継者と目されていたからこそ、あえて維摩は苦悩にあえぐ衆生こそ、仏の真の後継者であることを悟らせようとしているのです。
 知性豊かな声聞や菩薩たちが、維摩に勝てないことは、現実に民衆のなかで、民衆のために尽くす“知恵と行動の人”が、“知識の人”に勝ることを教えています。
 アタイデ “知識”と“知恵”の間には、根本的な違いがあります。科学や技術の専門家であっても、現実の人生における障害を“人生の最高点”へと転換できる“知恵”をもっているとは限らないのです。
 池田 釈尊は、病人を励まし、体まで丁寧に拭いてあげながら、弟子たちに語りかけます。
 「悩める人に尽くすことには、仏に尽くすことと同じ福徳があるのだ」(『増一阿含経』巻四十)と。
 釈尊が最後に説いた『涅槃経』には、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く如来一人の苦なり」(一切衆生が受けるさまざまな苦しみは、ことごとく如来一人の苦しみである)とあります。一切衆生のさまざまな苦しみをわが苦しみとして、「同苦」することが如来(仏)の振る舞いであり、仏の教えのままに実践する菩薩のあるべき姿であることを説いています。
 仏法は、すべての人の尊厳なる生命を基盤として、「人権」を現実社会で確立しゆくことをめざしています。ゆえに、自身の権利の主張にとどまらず、他者の人権のために行動することをうながすのです。それは、義務ではありません。「菩薩」がみずからの使命に生きようとする「誓願」なのです。
 人類の幸福を願い、人権の尊重のために戦いつづける総裁の軌跡は、まさしく「菩薩」に通ずるものです。

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