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「人権」を基礎づける二つの大きな流れ  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 なぜ総裁が“宗教的なるもの”を強調されたのか。総裁の発言の重さを知るために、もう一歩踏み込んで人類の思想史、哲学史をたどっていきたいと思います。
 アタイデ 賛成です。第三委員会でも、じつは、三カ月にわたる議論のなかで、紀元前十八世紀の『ハムラビ法典』にまでさかのぼって、人権思想の歴史をたどり直し、何を根本に人権を基礎づけることが正しいのかを検討したのです。
 仏教などの太古の東洋哲学、西洋の伝統を構成するキリスト教思想、さらにトマス・アクィナスのスコラ哲学、『コーラン』の規律など、すべての参加者が、一九四八年十二月十日、パリで行われた第三回国連総会を締めくくる偉大な夜に向けて、みずからの信条のもとに、自由に発言し討論しました。
 そのなかで、私どもブラジル代表が提案したことは、諸国民の発展と国際的協調を維持するために、これまで諸国民が創造してきた偉大なる“精神的潮流”を受け入れようということでした。これは、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言をはじめ、数多くの政府によって、各国の憲法等でも確認されてきたことです。
 池田 壮大な試みです。「世界人権宣言」の思想的・哲学的根拠となった、西洋の人権思想の流れは、大きくみて二つあるといわれます。
 まず、一つの流れは、近代の啓蒙主義以降の思想――ロック、モンテスキュー、ルソーなどの思想・哲学――にもとづくと考えられるものです。
 これは、中世の神学から離れて、「神の視座」から「人間の視点」に立脚点を移し、人智を超えた創造主・絶対者を過剰に重視することを避けようという流れといえます。
 中世において、「神」への従順は、いつしか「神の代理人」と称する教会への盲従へと質的に変化し、教会権力の腐敗を招いた歴史があります。
 また、近世においては、教会を超える勢力をもった王たちが「王権神授説」を唱えました。彼らは「神」を後楯に、絶対専制君主となって、民衆の人権を犠牲にし、権力の拡大・安定に腐心してきました。
 そして、アメリカ独立革命やフランス革命が起こった近代においては、宗教と世俗の権威・権力からの“精神と肉体の自由”の獲得が、人権闘争の大きな核になりました。この人権闘争を支えたのが、啓蒙主義以降の哲学です。
 アタイデ 近代は啓蒙主義とともにあったといえます。
 その流れは、ニュートンやベーコンの「科学」、ホッブズやロックに代表されるイギリスの「哲学」に始まります。それは合理主義の巨匠である、ルソー、ヴォルテール、ダランベール、ディドロといった百科全書派へと連なり、大いなる輝きを放ちました。
 そして、われわれの時代(十九、二十世紀)に入り、啓蒙主義によって開かれた偉大な展望が、世界を革命へと導き、さらに数えきれないほどの逆境と悲痛を経て、「世界人権宣言」として結実したことを、特筆したいと思います。
 池田 もう一つの西欧の思想的流れに、ブラジルのレヴィ・カルネイロやフランスのジャック・マリタンのように、キリスト教における“宇宙創造”の意味への問いかけを通して、人権を普遍的に基礎づけようとするものがあります。
 アタイデ そうです。古より存在するモーセの「十戒」をはじめ、一二一五年に発表された「大憲章(マグナ・カルタ)」、さらにはウィリアム三世の「権利の章典」にいたる人類の発展の歴史には、人間の権利と義務を規定するためのさまざまな倫理的・政治的努力が記録されています。
 池田 「大憲章」は「神の恩寵」への感謝から始まっていますね。また「権利の章典」も、キリスト教にもとづいて、人間の諸権利が普遍性をもつことを裏づけています。
 第二次世界大戦当時、中世的な「神」の束縛から解放されたがゆえに、人間は大きな誤りを犯してしまった、という見方がありました。
 人々の合意にもとづいて選出されたはずのナチスやファシスト党が、いつの間にか、独裁政治へと堕してしまった歴史への反省が、戦後、西欧社会に広く横たわっていました。
 そうした背景から、自己の利害にとらわれてしまう“人間”を超え“普遍的なるもの”に人権の起源を求めようとする思いが高まっていきました。
 アタイデ 「神」との絆がゆるんだ現代社会の危機的状況を、数多くの歴史家が指摘しています。かつて、第三委員会の場でなした私の主張が、よりいっそう意義をもつ時代といえるのではないでしょうか。
 池田 この二つの流れのうち、前者は“人権は本質的には宗教を離れて成立し、宗教にかかわりなく根拠づけられるもの”との考え方です。
 私自身、この考えにことさら異を唱えるものではありません。ただ、人権の普遍性とその尊重を、いかに基礎づけるかという観点から考えるとき、“普遍的なるもの”“宗教的なるもの”のバックボーンが大切になってくるように思われます。

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