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日蓮大聖人・池田大作

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「宝塔」とは尊厳なる人間生命  

「21世紀の人権を語る」A.デ・アタイデ(池田大作全集第104巻)

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1  池田 総裁が提起された問題は、「世界人権宣言」の基調をなし、全体を方向づける、きわめて重要な事柄ですので、次章以後に、人類の思想史、哲学史をたどりながら、十分に議論を重ねていきたいと思います。この章は、最後に、私のほうから、仏法の視座を示しておきたいと思います。
 仏法では、仏とは“理法を覚知する智慧”、“人々を温かくつつみこみ、教え導く慈悲”を具えた存在であると説きます。この智慧と慈悲は、「理性」「良心」を支える徳目といえるでしょう。
 大乗仏教の究極では、この智慧と慈悲――確かな「理性」と「良心」――に輝く尊厳なる仏が、じつは、すべての人間に内在している本性であり、一切の衆生に“仏の生命”(仏性)が具わることを説き示しました。
 この法理を大乗仏教の最高峰である『法華経』の宝塔品では、「宝塔」の出現ということで表しています。経文によれば、その「宝塔」は七宝で飾られ、四つの側面から芳香を漂わせる荘厳なものである。そして、「宝塔」は大地から湧出して虚空に浮かんだと説かれます。
 高さは五百由旬、縦横が二百五十由旬といいますから、一説によれば、地球の直径の半分、あるいは三分の一、四分の一にもあたる、じつに巨大なものです。それが金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰という七宝をはじめ、壮麗な装飾がほどこされている。
 この「宝塔」が、じつは人間に内在する宇宙大の“仏の生命”の象徴なのです。
 アタイデ 仏教は、人間に幸福をもたらす生活大系であると考えられます。仏教は、人間の尊厳を輝かせゆく“特性”を、一人一人が最大限に開くための道を、すべての人に示しています。この原則は、仏教の慈悲の精神にもとづいているといえるでしょう。
 池田 日蓮大聖人は、『法華経』に説かれる荘厳な「宝塔」とは、ほかならぬ“内なる尊厳”を具えた一個の人間生命そのものであり、そのことを教える仏法を正しく実践する人である。そして、「宝塔」を飾る七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙という人間の尊厳性を支える七つの徳であるとされています。
 まず「聞」とは、“正しい仏の教えを聞くこと”です。正しい法理をよく聞き、理解していこうとする求道心こそ、すぐれた人格形成の基盤となります。
 「信」とは“正しい法を信じること”です。そこに、正しい生命観、根本的な人間信頼の心も具わっていきます。
 「戒」とは、“邪な欲望に振り回されることなく、欲望をコントロールして、自己完成へと昇華させていくこと”です。
 「定」とは、“外界の縁に紛動されることなく、みずからの信念に心を定めること”です。信念・使命に心を定めて生きぬくとき、真実の知恵も湧いてきます。
 「進」とは、“つねに怠ることなく向上の実践に励むこと”。「勇猛精進」とも説かれます。勇気を奮い起こしての精進、努力こそ、人格完成への原動力です。勇気は知恵に通じ、慈悲に通じます。
 「捨」とは、“なにごとにももの惜しみしないこと”です。また、「捨」とは、“施すこと”である。他の人々のため、社会、人類のために尽くす――それは、みずからのエゴを打ち破った慈悲の実践にほかなりません。
 最後の「慙」とは、“つねに自省の心をもち、慢心を起こさないこと”です。慢心におちいれば、求道心を失い、人間を見下して、差別観にとらわれてしまいます。
 この七つの徳目を実践し、社会、人類のために尽くすことによって、“内なる尊厳”に輝く、人間本来あるべき姿が、「宝塔」のごとく、無限に尊い姿として現れるのです。
 「法華経」の方便品では、この、一人一人に具わる“内なる尊厳”を開きゆくことこそ、仏がこの世に出現した究極の目的、すなわち「一大事因縁」であると説いています。
 アタイデ 最高にして不変の価値とは、「一人の人間」の存在です。それ以外のものは、みな一時的なものであり、状況に応じて変化していく相対的な価値でしかありません。
 「世界人権宣言」の検討にあたっても、この「一人の人間」という視点に立つことを、つねに心においていました。
 池田 よくわかります。人間が根本であるからこそ、「世界人権宣言」は、永遠に人類を照らす「光」といえるのです。
 さて、次いで、譬喩品には、仏みずから、すべての人々を“平等”に「皆是れ吾が子」と呼んで、人間生命を“侵すべからざる尊厳なるもの”ととらえています。ここに人間生命の“不可侵性”――何ものによっても侵されてはならない尊厳性――が示されるのです。
 アタイデ 仏教は、たしかに“宗教”、あるいは“哲学”といえるでしょう。ただ、より正確には、一つの“魂の在り方”といえないでしょうか。

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